万葉集巻八の冒頭は、春の雑歌として「志貴皇子の懽びの歌」として次の歌を載せている。 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418) 志貴皇子については、このサイトの別の部分で言及したので詳しくはふれない。天智天皇の皇子で、天武系の血脈がとだえたあと、志貴皇子の子つまり天智天皇の孫(光仁天皇)が即位し、それ以降天智系が皇統を継ぐようになった。 この歌は、皇子らしく、おおらかな、のびのある歌声を思わせるもので、春の到来を告げ知らせるものとして、四季の歌の冒頭を飾るにふさわしいものだ。石走るは垂水にかかる枕詞だが、垂水には滝という意味と、垂水という地名とがかけられている。垂水は志貴皇子の宮があった奈良の春日近辺の地名だとされる。その垂水の滝の水しぶきをあびて蕨が萌え出てきた、それを見ると春の訪れが実感されることよ、という趣旨の歌で、待ち望んだ春の到来を喜ぶ歌である。 上の歌に続けて、鏡王女の次の歌が載せられている。 神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる(1419) 神なびのは、神が降臨するという意味の枕詞、その岩瀬の社に呼子鳥がしきりに鳴いている、あまり強く鳴くと私の恋心もまさることよという趣旨。呼子鳥がなにをさすかは定説がない。郭公とかホトトギスだとする説があるが、なかには鳥ではなく猿だとする説もある。郭公やホトトギスは夏の鳥なので、それを歌った歌を春の部に載せるのはふさわしくないだろう。鏡王女は藤原鎌足の正妻で、不比等の母。 呼子鳥を歌った歌をもうひとつ。これは大伴坂上郎女の歌である。 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ(1447) この歌には、「天平四年の三月の一日に佐保の宅にて作る」という詞書がついている。その時にいたって呼子鳥の声を始めて聞いた。普通は聞き苦しい声であるが、季節の変わり目をしらせてくれると思えば、懐かしさも感じる、という趣旨だろう。旧暦の三月一日は、新暦でいうと四月下旬をさすから、これは郭公でもおかしくない。しかし、郭公の声は、普段は聞き苦しいものだと感じられていたのだろうか。ともあれこの歌も、季節の移り行きを感じさせる歌だ。 呼子鳥を夜鳴き鳥ととらえて歌った歌が、巻十春の雑歌にある。 我が背子を莫越(なこし)の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに(1822) これは、逢瀬の後に去ってゆく男をどうか呼び戻してほしいと、女が呼子鳥に呼びかけている歌だ。夜が更けてしまったなら、男が去るのもしかたがないが、まだ夜が更けていないのだから、まだ一緒にいたいのだという女の気持ちが伝わってくる。女がこんなことをいうのは、呼子鳥が夜鳴く鳥だという前提があるからだろう。 春の歌といえば、志貴皇子の石走るの歌とならんで、山部赤人の次の歌が忘れられない。 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(1424) この歌を筆者は別のところで、春の野にスミレを摘みに来た男が、あまりにも気分がいいので、そこで一夜を明かした、それも女と一緒に、と解釈した。つまり男女の恋の歌と解釈したわけだが、そこまで深読みしなくとも、この歌は春の野辺の気持ちよさをうたったものとして、非常にさわやかな印象を与える歌だ。ともあれ、単純に解釈すると、男はスミレ咲く野に横たわり、そのまま一夜を明かしたというように読める。春の野だから、さぞ露に濡れただろうと、野暮な心配をするには及ばない。 春の野に露を置くのは霞のなせるわざだ。その霞を歌った歌をひとつあげたい。 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも(1812) これは、巻十春の雑歌の冒頭を飾るもので、この巻のほかの歌同様無名の人の作だ。しかし歌いぶりからして、家持らしさを感じさせる。ひさかたのは、天の枕詞、香具山は大和地方の中心となる霊山、そこに霞がたなびくさまを見て春の到来を感じたと歌ったものだ。 もう一つ、春の到来を喜ぶ歌。やはり巻十の春の雑歌から。 冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にも鴬鳴くも(1824) 冬がさって春がやってくると山にも野にも鶯が鳴いて、それはそれは春らしい気分になるという、うきうきした気持を歌ったものだ。万葉人にとっても鶯は、春を象徴する鳥だったのだろう。 |
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