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ほととぎすを詠む・万葉集を読む


ほととぎすは初夏に渡ってくる渡り鳥であり、甲高い声で賑やかに鳴くこともあり、夏の季節を感じさせる鳥として親しまれた。鶯が春を代表する鳥だとすれば、ほととぎすは夏を代表する鳥である。万葉集にはそのほととぎすを詠んだ歌が、百五十首以上もある。いかに万葉人に親しまれたかがわかる数だ。

ほととぎすは季節を運んでくる鳥と観念されていたから、初夏が近づくと、あるいは初夏になると、ほととぎすの到来を待ち望む気持ちが高まる。そんな気持を詠いこんだ歌の一つをあげる。
  我が宿の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時(1481)
我が宿に咲いた橘の花に、ほととぎすよ、今こそ来て鳴いておくれ、折角友と会えたのだから、と言う趣旨。初夏になって友が訪ねてきてくれた、その友をもてなすにほととぎすほど相応しいものはない、という気持ちがこの歌には込められている。歌手は大伴書持、家持の弟である。

次も、ほととぎすの来るのを待ちわびる歌。
  神奈備の石瀬の杜の霍公鳥ならしの丘にいつか来鳴かむ(1466)
神奈備の石瀬の杜にいるほととぎすよ、ならしの丘には何時来て鳴いてくれるのか、という趣旨。ほととぎすがつい近くまで来ているのに、まだわたしの居るところまでは鳴きに来てくれない、早く来ておくれ、と詠んだものだ。歌手は志貴皇子。同じような歌が、この歌の四つ先にもある。「もののふの石瀬の杜の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に」(1470)。こちらは、石瀬の杜にやって来たはいいが、まだ鳴かないといって、鳴くのを催促している歌だ。

次は、やって来て初声を披露したほととぎすを詠ったもの。
  霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ(1939)
ほととぎすよ、お前の初声を私におくれ、それを五月の飾りの玉に混ぜて、糸に貫こう、という趣旨。前回読んだ藤原夫人の歌「ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでは」と同趣旨。初夏の晴れ晴れしい雰囲気を感じさせる歌である。

ほととぎすはどういうわけか、男女の恋と結びついた。だからほととぎすを詠った歌には、恋の思いを重ね合わせた歌が多い。次はその一例。
  あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に偲はゆ(1469)
山ほととぎすの声を聞くと、家に残してきた妹が常に慕われて思える、という趣旨で、ほととぎすの声が愛する人を思い出させると詠った歌である。歌手は沙弥とあるから、若い僧だ。若いとはいえ僧侶にも愛する人をしのばせるものをほととぎすの声は持っていると受け取られていたわけである。

次は、そんなほととぎすの声を聞いて、心を乱された様子を詠った歌。
  霍公鳥いたくな鳴きそひとり居て寐の寝らえぬに聞けば苦しも(1484)
ほととぎすよ、そんなにはげしく鳴かないでおくれ、一人寝で寝苦しいところにお前の声を聞くと、一層寝苦しくなる、という趣旨。寝苦しくなるのは、恋心を刺激されたためだ、という思いが伝わってくる歌だ。歌手は大伴坂上郎女、女がこう歌ったところが面白い。

ほととぎすの声を聞いたために、激情に駆られたということを詠った歌もある。
  恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる(3780)
恋のために死ぬというなら死んだらよいというのかや、ほととぎすよ、私が物思いに耽っているときに、そんなに鳴き騒ぐことはないだろうに、という趣旨。歌手は中臣宅守、花鳥に寄せ、思いを述べて作った歌七首のうちのひとつ。この人は恐らく激情家だったのだろう。

ほととぎすのために心を惑わされるくらいなら、ほととぎすがやってこないようにしようという発想もありうるわけで、次の歌はそういう発想を詠ったものだ。
  木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ(1946)
木を植えるときは決して高い木を植えないようにしよう、高い木だと、ほととぎすがやってきて大声で泣き騒ぎ、わたしの恋心をつのらせるだろうから、という趣旨。ほととぎすは、高い木の梢で鳴くと思われていたわけであろう。

一方でほととぎすは、恋の仲立ちを期待されもした。次はその一例。
  暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ(1498)
閑がないといって来ないあの人に、わたしはこんなにも恋焦がれていると伝えておくれ、という趣旨。歌手は、これも大伴坂上郎女。歌の内容からして、いかにも女が詠むべき歌だ。

最期に、ほととぎすを詠った長歌を紹介する。大伴家持の歌だ。
  谷近く 家は居れども
  木高くて 里はあれども
  霍公鳥 いまだ来鳴かず
  鳴く声を 聞かまく欲りと
  朝には 門に出で立ち
  夕には 谷を見渡し
  恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず(4209)
これには次の反歌がついている。
  藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ(4210)
藤の花の盛りは過ぎた、なのに何故ほととぎすは、ここにきて鳴かないのか、という、ホトトギスを待ちわびる気持ちを詠ったものだ。





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