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鹿を詠む:万葉集を読む


鹿は、秋が繁殖期にあたり、その時期には交尾する相手を求めて鳴く声が聞こえてくる。そんなことから、恋が好きな万葉の人々も親しみを感じたのだろう。万葉集には鹿を詠んだ歌が六十八首収められているが、その殆どは、相手を求めて鳴く鹿を詠んだものだ。鹿を詠んだ歌の代表と言えば、次の歌がまず思い浮かぶ。
  夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(1511)
夕方になるといつも鳴く小倉山の鹿が今夜は鳴かない、寝てしまったのだろうか、という趣旨。おそらく鹿が妻を得て一緒に寝てしまったのだろうという思いだろうと解釈される。これは舒明天皇御製歌となっているが、巻九には「夕されば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(1511)という歌が雄略天皇御製歌として載っている。語句がほとんど同じだが、おそらく舒明天皇御製歌が本歌で、雄略天皇御製歌とされるものは、後世の模倣だろうという意味のことを、斎藤茂吉は言っている。茂吉はこの歌を万葉集中最高峰の一つだと評価している。

次は、大伴旅人が大宰府で詠んだ歌。
  我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿(1541)
我が岡に牡鹿が来て鳴いている、初萩の花のような美しい妻を求めて牡鹿が鳴くことよ、という趣旨。「さを鹿」は「小牡鹿」と書く。雄の鹿のことである。その牡鹿が妻を求めて鳴く声に、旅人が心を打たれたのだろう。旅人は大宰府滞在中に最愛の妻を失っているから、この歌はあるいは、妻への自分自身の思いを込めているのかもしれない。

次は、巻六所載笠金村の歌。
  さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ(953)
牡鹿の鳴く山を越えてあなたに会いにいきましょう、でもあなたはそんな日にも会ってくださらないのでしょうか、と言う趣旨。不実な女をせめる男の歌である。こんな場面に牡鹿を登場させているのは、自分のあなたへの思いは、牡鹿に負けませんよ、とあてこすっているのだろうか。

巻十秋雑歌の部に、鹿を詠んだ歌がまとめて載せられている。まず次の歌。
  このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ(2141)
このころの秋の朝には、霧がたちこめた中を妻を呼ぶ牡鹿の声が聞こえる、その声がさわやかに聞こえる、という趣旨。夕べではなく、朝霧のなかで妻を呼ぶ牡鹿のイメージが素敵だ。

次も牡鹿が妻を呼び集めるのを詠んだもの。
  さを鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原(2142)
牡鹿が妻を呼ぼうとして鳴いている、その声が届く極みまでなびいてくれ萩原よ、という趣旨。「ととのふ」は呼び寄せるという意味。その呼び寄せる声が速やかに届くよう、萩の原になびいて欲しいと歌ったものだ。これだけ強くうたうのであるから、この歌い手は自分自身も呼び叫んでいるつもりになっているのだろう。

次の二首は、猟師にねらわれるのにかかわらず、妻を求めて鳴く牡鹿を詠む。
  山の辺にい行くさつ男は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも(2147)
  山辺にはさつ男のねらひ畏けどを鹿鳴くなり妻が目を欲り(2149)
一首目は、山辺には行き来する猟師が多いけれども、それをも恐れず牡鹿が妻を求めて鳴くことよ、と詠んだもの。二首目は、山辺には猟師に狙われる怖さがあるけれど、それでも牡鹿は妻が恋しくて鳴くのだ、という趣旨。どちらも、命がけで妻を求める牡鹿の熱意に感じた歌だろうと思う。自分の思いもこの牡鹿たちに負けないぞ、と言いたいのかもしれない。

次は、妻問いする牡鹿への共感を詠んだ歌。
  さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(2220)
牡鹿が妻を呼んで鳴いている山の岡辺では、早稲田を刈らないで置こう、たとえ霜が降っても、という趣旨。早稲田を刈って牡鹿を驚かさないようにしようというのだろうか。

次は、牡鹿の鳴き声に自分の恋のやるせなさを思い重ねた歌。
  妹を思ひ寐の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて(3678)
妻を思って寝ることがままならぬところに、秋の野では牡鹿が鳴いている、あれもまたわたしと同じように、妻を思いつめているのだろうか、という趣旨。この人は眠れぬ夜に妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声を聞いて、思いつめてしまったものと見える。





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