知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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廣松渉「<近代の超克>論」


廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。

この座談会は「文学界」の同人が呼びかけたもので、出席者は、司会役の河上徹太郎が「これだけの人数の一流の人たち」と呼んだ次の13人である。西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊地正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎。今の日本人にはなじみの薄い名前が多いと思うが、おおまかに区分けすると、文学界を拠点とする保守的な文人たち、亀井勝一郎が代表する日本浪漫派、それに京都学派と呼ばれる学者たちからなる。これを廣松は「反近代統一戦線」と呼んで、彼らが日本のファシズム運動に果たした歴史的な意義について言及しているわけである。

だが、この座談会についての廣松の取り上げ方は、戦後の大方の批判の取り上げ方とはちょっと異なっている。戦後主流となった批判的見方を手短に言えば、次のようになろう。昭和16年の対米戦勝利によって、国中が上から下まですっかりのぼせ上ってしまい、日本が西洋列強を打ち破って世界の盟主になる可能性が非常に強まったという風に勘違いした。そうした勘違いが、いまや西洋何するものぞという意識を強化し、そこからして西洋を超克して、東洋いや日本の論理で以て世界を導いていくことが必要だというような妄想が強まってきた。この座談会はそうした妄想が誇張された形であらわれたのだ、とする見方だ。<西洋の超克>といわずに<近代の超克>といったのは、明治維新以降の日本人にとって、西洋即近代という枠組が当然の前提としてあったからだ。

こうした見方は、この座談会を時流に乗った悪ふざけと受け取るものだ。筆者は直接この座談会の記録を読んだわけではないが、廣松が引用する主席者の発言に接する限り、やはり相当いかれているなという感じは伝わってくる。本来論理的で冷静であるはずの(西田派の)哲学者までが、相当のぼせ上って、いかれた発言をしている。例えば第二章で引用されている高坂正顕の発言。これなどは、今の時点で囚われなく読むと、狂者のたわごとぐらいにしか聞こえない。時代の空気が冷静であった人々まで「たわけ」にしてしまったという感じである。

こうしたタワケぶりを、加藤周一などは次のように表現している。「日本浪漫派が言葉の綾で魅惑したとすれば、京都の哲学者の一派は論理の綾で魅惑した。日本浪漫派が戦争を感情的に肯定する方法を編み出したとすれば、京都学派は同じ戦争を論理的に肯定する方法を提供した。日本浪漫派が身につかぬ外来思想の身につかぬところを逆手にとって、国粋主義に熱中したとすれば、京都学派は生活と体験と伝統を離れた外来の論理の何にでも適用できる便利さを利用してたちまち『世界史の哲学』をでっちあげた。およそ京都学派の『世界史の哲学』ほど、日本の知識人に多かれ少なかれ伴わざるをえなかった思想の外来性を、極端に戯画化してみせているものはない」

これは、この座談会を戦争肯定のためのプロパガンダと見るものだが、それがプロパガンダであるかぎり、外在的な意図に基づいたものだという理解の仕方だ。要は戦争と日本の軍事独裁的な体制を擁護できればいいのであって、理屈などはどうでもよかったのだ、ということになる。

これに対して廣松渉は、特に京都学派に留目しながら、京都学派の果たした役割が、時代の世相に促された一時的なものではなく、彼らなりの歴史的な必然性というようなものに基づいた行為だったのだという風に捉えなおす。つまり京都学派の反西洋・反近代の姿勢は、一時的な熱狂の結果などではなく、御大たる西田幾多郎自身に内在していたものであったし、その後継者たちの中にも脈々と流れていた。それが、対米開戦での勝利と言う思いがけない展開を前にして一気に表面化したのが、この座談会での彼らの発言なのだと広松は解釈し直すわけなのだ。

そこで廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

このように、この本の中で廣松が主に行っているのは、京都学派の思想の特異性である。しかし何故廣松は、彼らの思想を改めて問題にしたのだろうか。廣松がこの論文を雑誌に連載したのは1974~75年のことである。その時点で京都学派とそれが代表する反近代の思想を改めて問題化する必要があったほど、世相に逼迫する理由があったのだろうか。

柄谷行人は、60年代に「近代批判」運動が盛り上がったことを引き合いに出しながら、そこでの論脈が戦前の「近代の超克」のなかで論じられていたことをすこしも超えていないと感じた廣松が、戦前に溯って近代批判を検証しなければならないと感じたのではないかと推測しているが(講談社学術文庫版解説)、あるいはそうかもしれない。

ヨーロッパにおいては、近代批判という現象の波が歴史の節目節目で現れている。ロマン主義の運動や、ニーチェの近代批判などはその典型である。西洋人が近代を否定する場合には、自分自身が生み出した文化が否定の対象になるわけだから、それは内在的な否定の形をとる。ところが非ヨーロッパである日本において近代批判が問題となるときには、その近代とは西洋とほぼ同義であると考えられるケースが多い。そのように考える人々にとっては、近代の超克即西洋の超克とならざるを得ない側面がある。しかし、20世紀の時代にあって、その西洋文明を否定してどのような文明を立てようというのか。単に日本人としての先祖返りでは、我々は痴愚蒙昧の世界に逆戻りするということになりかねない。そんな風に廣松は思っていたに違いない。そこで世の中で近代批判の声が高くなってくるたびに、その批判の内実を批判的に検証する必要を感じる、というのが廣松の本音だったのではないか。そんなふうに受け取れる。

柄谷行人がいうとおり、この本は廣松が日本の哲学および批評について書いた唯一の本である。その唯一の本で廣松がとりあげたものが、日本の思想における近代批判の流れであったわけだ。そういう点でこの本は、80年代以降に更なるアクチュアリティを持つようになったとの柄谷の指摘は正しい。80年代以降になると、日本にもポスト・モダニズムの思想が輸入されて、日本の思想業界においても近代批判が声高く叫ばれるようになるが、そのような時代においてこそ、近代批判の視座を問題とするこの本は大きな意味を持つようになるのだと思うからである。




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