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廣松渉「今こそマルクスを読み返す」


廣松渉といえば、「物象化論の構図」とか「事的世界観への前哨」とか「世界の共同主観的存在構造」とかいった著作を若い頃に読んだものだが、それらを通じて筆者が抱いた印象としては、マルクスの思想に新カント派やフッサールの現象学を接ぎ木したようなものだというものだった。物象化論はマルクスが資本論の中で展開したところであるし、事的世界観というのはマルクスの言う関係性やカッシーラーの関数概念とつながるところがあり、共同主観にいたってはフッサールの現象学に非常に近い。

だが、よくよく読んでみると、廣松の土台にあるのはカント的な考え方であって、マルクス的な考え方はそれへのつけたしではないか、と思えるところもある。廣松はもともとカント学者として出発したらしいから、ある意味当然のことかもしれない。そう思うと、廣松は基本的には新カント派の延長上にある思想家であり、マルクスへの取組はおまけのようなものだといえなくもない。

そんな風に思っていたところ、その想念を訂正せざるを得ないようなことが起こった。最近になって廣松最晩年の著作「今こそマルクスを読み返す」を読んだのだが、その結果彼がかなり熱烈なマルクス主義者だということを発見した次第なのである。

この著作はマルクスの資本論に依拠しながら現代の資本主義を批判したものなのだが、何しろ廣松がこれを書いたのは1990年のことであり、ソ連や東欧の社会主義が失敗したことを理由にマルクス主義の有効性が否定された時期にあたっている。つまり世界中の反共主義者たちがマルクス失権についての大合唱を熱烈に叫んでいた時期に、あえてマルクスの有効性を唱えたわけである(それも日本という地球の片隅で)。その意味で、これは一人の硬骨漢による反時代的告発といえるかもしれない。マルクスに余程いかれている人間でなければ、ここまではできまい。

そんなわけで筆者は改めて、マルクス主義者としての廣松渉を見直した次第であった。

この著作の中で廣松は、「賃金奴隷制」としての資本主義の欺瞞性を改めて告発している。しかしてその欺瞞性は歴史的に乗り越えられる必然性があることを改めて強調する。その議論はあまりにもストレートで、19世紀の半ばにマルクスが語っていたことを、20世紀の末にそのまま反芻しているという印象を与える。そこで読んでいる者は、歴史によって否定された理論の有効性をこのような形で蒸し返すのはあまりにも素朴過ぎると感ずるかもしれない。

しかし廣松にとっては、そうではないということらしい。たしかにソ連や東欧の社会主義は破綻した。しかしそれを以てマルクス主義の破綻と見做すわけにはいかない。ソ連や東欧の社会主義が行なったことは、必ずしもマルクス主義にのっとったことではなく、かえってマルクスやエンゲルスの予期していないことがそこでなされたに過ぎない。したがって、それらの破綻が即マルクス主義の破綻を意味するわけではない。どうもそのように廣松は考えているようである。

そう考える理由を廣松は主題的には語っていないけれども、文章の行間からはある程度伝わってくる。

ソ連や東欧の社会主義が果した役割は、資本主義の世界規模での克服ではなく、かえってその強化であった。というのも、社会主義の出現によって危機感を抱いた資本主義権力が、革命の勃発を恐れて軌道修正をするようになった。いわゆる社民的・福祉国家的な方向である。その結果賃金奴隷制としての資本主義の矛盾が一定程度緩和されて、革命の危機が遠ざかったばかりか、人間の顔をした資本主義といった倒錯したイメージまで生み出されるに至った。これは地球上に社会主義の政権が存在しなければありえなかった事態だろう。

しかしいまや、マルクス主義を標榜するまともな国家は地球上に存在しなくなった。その結果資本主義権力は、マルクス主義者からの反発を考慮せずに、自らの欲望をストレートに追及するようになってきた。賃金奴隷制としての資本主義が、その本性をむき出しにする条件が整ったからである。

アメリカや日本で現在進行している事態を見れば、廣松が言っていたことの意味がある程度わかるのではないか。廣松自身は、この本を書いてから間もなく死んでしまったので、21世紀における資本主義の有様を見聞する機会は持たなかったが、格差社会の進行とかワーキングプアの拡大とかブラック企業の横行とか、要するに資本による労働者の際限のない搾取がまかり通るようになった現今の事態を見れば、そこに賃金奴隷制としての資本主義の矛盾の尖鋭化を読み取り、革命の必然性を改めて感じとったのではないか。

何しろ今の日本では、労働者の賃金は限りなく引き下げられる一方労働時間は限りなく引き伸ばされ、労働者の労働条件は、労働者が人間として尊厳を持って生きられるような水準をはるかに下回る方向に向かっている。こうした状況が続けば、労働者階級の再生産自体が行なわれなくなる可能性が高い。実際日本は今後大規模な人口減が見込まれるが、それは労働者階級の再生産を考慮しない今日的賃金奴隷制資本主義のもたらす帰結といえなくもない。日本人はこのようなみじめな未来をそのまま受け入れるのか、それとも人間らしい生き方を求めて革命に立ち上がるのか。廣松だったらどのように考えるか。

というわけで筆者は、マルクス主義者としての廣松渉を改めて見直した次第なのであった。




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