知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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廣松渉の表情論


廣松渉の表情論は、哲学的な議論としてはかなりユニークである。表情という言葉で、人はふつう顔を思い浮かべるであろう。顔があるのは、人間や、せいぜいが動物などの生き物だから、表情が認められるのはそうした生き物に限られる、と思いがちだが、廣松の場合には、生き物に留まらず、森羅万象あらゆるものに表情があるという。あるいは表情性があるのだという。

廣松は言う、「裏山の松の樹はガッシリとしているが、大枝はノタウッテいる。崖にかけて淡竹がスクスクと伸びており、葉先はピンと張っている・・・小川はサラサラと流れ・・・夕日がノンビリと傾き、月影がソッと忍び寄ってくる」(廣松渉「表情」、以下同じ) 

この短い文中で、ガッシリ、ノタウッテ、スクスク、ピンと、サラサラ、ノンビリ、ソッと、などの言葉で言及されている部分が、対象がもつ表情性を表しているのだと廣松は言う。廣松によれば、「環界的情景は表情性に満ち充ちている」(同上)。ここで「環界」といっているのは「環境世界」の略である。つまり我々人間が生きている環境世界は表情性に満ち充ちている、というわけである。

上に例示としてあげた言葉からほんのりと伝わってくるのは、表情という言葉には、対象についての知覚や認識に加えて、感情的な要素が含まれているということである。われわれは、対象を認知するときに、それを単に知的に認知する(知覚する)のみに留まらず、情意的な要素を含んだものとして受け止める。つまり、対象は、知覚の作用と感情の作用がもつれ合った複合的な働きによって、まず原初的に与えられるのである。

「我々に言わせれば、『純然たる知覚現相』などというものは如実には存在せず、如実の現相はその都度すでに"情意的なモメントを孕んで"おり、本源的に表情的である。より正確に言えば、如実の環境世界的現相は本源的に情動的価値性を"懐胎"せる表情的現相である。従って、表情的現相は汎通的である」(同上)

廣松はこう言うことによって、従来の哲学の主流の意見に異議を唱えているのである。従来の主流の意見では、人間の認識というものは、純然たる精神的な作用であって、しかも、感情を含まない知的な営みだとされてきた。人間の認識作用とは、現相的所与として与えられた対象を知的に処理していくことであり、そこには情意的なものは含まれない。情意的なものは、知的な知覚作用とは別なところで、あるいはその結果として起こるものであって、両者が融合するというのは、比喩としてはありえても、実際にはありえない。そう主流の意見はいうのだが、廣松はそれに異議を唱え、われわれ人間の認識作用というものは、本源的に情意的なモメントを孕んでいると主張するわけである。

こう言われてみると、廣松の言う表情性とは、対象が本来的に内在させている要素とも受け取れるし、対象を受け止める人間の側の要素とも受け取れる。しかし、廣松に言わせれば、表情性とは、対象そのものにのみ内在するというわけでもなく、また、人間の側だけに起因するものというわけでもない。いったい、人間の認識作用を、対象と主体とに分裂させ、主体による対象の知的把捉と捉える伝統的な考え方に廣松は反論しているのである。廣松にとっては、人間の認識作用とは、人間が世界との間で取り結ぶ関係のことなのであり、その関係のあり方が、知的な要素と情意的な要素との複合として成り立っている。何故なら人間は、精神活動だけで生きているわけではなく、世界に向かって情意的に反応しながら生きてもいるからだ。それは、人間が肉体を持った物質的な存在であるという特性に基づいているのだ、というわけであろう。

ここで、廣松の表情論が、彼の認識論の枠組のどの部分に位置づけられるかが問題となろう。廣松の認識論の特徴は、世界を四肢的存在構造として捉えることである。それは、対象については、レアルなあるものをイデアールななにものかとして捉え(対象の二肢的二重性)、また、主体については、個別的存在としての自分の認識が「われわれ人類」の一員としての視点からなされるのだと捉える(主体の二肢的二重性)。

表情論は、対象の二肢的二重性にも、また、主体の二肢的二重性にもかかわるようである。対象の二肢的二重性とのかかわりにおいては、レアールなあるものが、単純な知覚現相として現れるのではなく、すでに表情性をともなったものとして現れる。そのことは、我々が世界に生きていることの本質的なあり方から来るのだと言えよう。我々は、単に知的に世界を認知しているのではなく、情意を含め、身体全体で環境世界と関わっている(関係している)。だから、世界に表情性が満ち充ちているのは当たり前のことなのだ。

ついで、主体の二肢的二重性については、表情論はどのようなかかわりをもつのか。この面については、個人がどのようにして自分の帰属する共同体の規範を内面化していくかがキーポイントになるが、その内面化の過程で、表情論が深く関わってくると廣松は考えているようである。廣松は、個人による共同体規範の受け入れには、他者の認知というプロセスが深く関わると考えるわけだが、その他者の認知というプロセスに表情が大きな働きをする。廣松は、事物的な対象の認知にも表情の感得がともなっているとするのであるが、それを拡大して、他者の認知にも表情の感得が伴っているとするのである。

「表情的感得を前梯にして事物性対象認知が分立的に成立するのであり、また、表情性知覚のある特殊なケースに即して所謂他己意識が形成され、当の『他己』意識との反照において甫めて『自己』意識も現成しうるのである」(同上)

つまり、表情の感得が前提となって事物的な対象が知的に認知されるのと同様のプロセスによって、他者の認知の場合にも、表情の感得が前提となる、そしてそこから形成された他者の認知をもとにして、それとの反照という形で自己の認知が成立すると考えるわけである。このような考え方が、デカルト以来の哲学の伝統から如何にかけ離れているかは、いうまでもなかろう。

こうした議論を踏まえて廣松は、他者の認知にかかわる細かい議論を展開していく。以下はその一例である。

「著者は『他我認知』と『他者認識』とを一応区別する。他者を能知能情能意的ないわゆる意識主体として認知するのが他我認知(他我としての承認)であり、他者の表現(即自的であれ対自的であれ)を理解するのが他者認識(他者理解)である」(同上)

「著者は、自我の成立条件として、共軛的「他我」意識の現成という事態に止目する。そして、他我認知と他者理解とは、原基的位相では同時相即的であるとしつつも、論理上はむしろ、その場その場での"表現"理解に即しての、共軛的な対他対自的な分立に定位した、他者理解から他我認知の成立を説く」(同上)

廣松らしいこむつかしい言葉が並んでいるので、読者はやや面食らうところがないでもないと察するが、廣松がここで言っていることは、人間というものはひとりだけの孤立した存在ではないこと、したがって他の人間との間で関係を取り結ばねばならないこと、自分という存在の認識についても、それは他者の認識があってこそ、それとの反照においてはじめて成立するのだということ、などといった事柄である。




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