知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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廣松渉のハイデガー論


ハイデガーの哲学史上の意義についてはさまざまな評価があるが、いづれにしても、彼の思想が二十世紀の哲学に深刻な影響を及ぼしたとする点では異論がないであろう。或る意味、ハイデガーとは対極的な立場をとる廣松渉でさえ、その哲学史上の意義を高く評価している。それは、単純化して言えば、ハイデガーが、西洋哲学の伝統的な枠組を根本から覆し、まったく新しい枠組の可能性を、広く認識させたということにある。

伝統的な哲学の枠組というのは、人間の認識作用に定位しながら、そこにおける主観―客観図式を通じて、人間や世界の意味を探ろうとするものであったといえる。しかし、ハイデガーは、人間の認識作用そのものをほとんど問題とせず、また、人間とその対象的な世界とを主観―客観図式で捉えることもしなかった。彼にとって、世界とは、認識の対象なのではなく、現存在としての人間が、そのなかで生存している場なのである。

つまり、ハイデガーは人間を、認識する存在者として捉えたのではなく、世界の中で生きている世界内存在として捉えた。したがって、人間の本質は認識することにあるのではなく、生きることそのものにある。認識は、人間が生きていることのひとつの要素に過ぎないのだ。

世界内存在としての人間にとって、根本的に重要なのは、対象の認識というよりも、世界への気遣いである。人間は世界について気遣いすることで、世界とかかわりあい、世界と溶け合いながら生きていける。なにごとかを気遣うということは、そのものを認識の対象とするのではなく、それを自分の生きる糧として役立てるということを(ハイデガーにおいては)意味する。糧、とは言い換えれば、生きるための道具である。こうしてハイデガーにおいては、対象の事物的な存在性よりも、世界の道具的な存在性がより大きな意義を持つ。

しかして、この気遣いの対象には当然、他の人間も含まれる。他者の問題はハイデガーにおいては、認識の対象としてではなく、世界の中でともに生きている存在者として、すなわち共同現存在として捉えられている。私にとっての他者は、私が認識する以前にそこに存在しているのだ。例えば、私がこの世界に生まれたときには、私を生んだ私の両親はすでにそこに存在していたのである。でなければ、私が生まれるはずはないから。

廣松は、ハイデガーの思想の特徴をとりあえずこのように概括したうえで、それを一応は評価して見せる。

「われわれは、ハイデガーが『事物的存在性』に対する『道具的存在性』の第一次性を指摘し、また、人間の本質的な『共同現存在』を看取していることを高く評価する」(廣松「ハイデガーと物象化的錯視」以下同じ)

このようにハイデガーは、道具的存在性という概念を持ち出すことで、世界内存在としての人間の本質を、認識主体としてではなく、行為の主体として捉えたことに哲学史上偉大な意義を有するといえるわけであるが、しかし、折角捉えたその道具的存在性というものについて、ハイデガーはある種の錯視をしている、と廣松は批判するわけなのである。

廣松はいう。ハイデガーは「道具的存在者の被媒介的存立構造を正しく把握していない」と。つまり、ハイデガーは道具的存在性を無媒介なものとして持ち出しているというのである。無媒介というわけは、道具というものは人間の行為との関連においてはじめて意味をもつのにかかわらず、あたかも対象がそれ自体として持っている、対象に内在する性格のものとして捉えているという意味である。たとえばハンマーは、ものを打つという行為との関連で人間が作り出したものであるにかかわらず、そうした経緯が捨象されて、人間の行為とは無関係に、あたかもそれ自体において道具的存在性が存在するというように捉えられることである。

これを廣松は、「道具的存在性に関する一種の物象化的錯視が犯されている」といって批判するわけなのである。

先のハンマーの例を廣松自身の言葉で語らせれば次のようになる。

「道具的存在性が道具的存在性として存在するのは、役柄行動において道具を道具的に使用する実践の場でのことである。例えば、ハンマーの道具的存在は、それを適具的に使用する実践の場で発見されるのではなく、当の役柄実践においてはじめて存在するのである」(同上)

ここで言われていることには、二重の意味合いが含まれている。まず、道具というものは人間の行為との関連においてはじめて意味を持つのであって、人間の行為とは無関係に、道具がそれ自体において道具的存在性を持つとみなすのは、物象化的錯視だとする主張である。

もう一つは、人間の実践的な行為は、一人の孤独な人間による孤立した行いではなく、他の人間とのかかわりのなかで行われる役柄行動としての意義を持っている、その点では、人間とは基本的に社会的な存在なのだということである。

ところがハイデガーは、折角道具的存在性というアイデアを思いつきながら、それが持つ(人間とのかかわりあいにおける)被媒介的要素や、人間の実践的な行為が持つ社会的な要素を廃却している、と廣松は批判するわけなのだ。

この批判が、廣松自身の思想との比較においてなされていることは、容易に見てとれるところだろう。比較の最大のポイントは、廣松のいう、世界の共同主観的存在構造という面だろう。廣松は、人間の認識を共同主観的な営みだと見ていたわけだが、ハイデガーにはこの側面が著しく欠けている。ハイデガーも他者を持ち出すことはあるが、それは私の気遣いの相手としての、世界内存在としての私にとっての、道具的な存在性格のものとしてであって、私を私として成り立たせている、私の存在の条件をなすものとしてではない。

筆者が思うに、ハイデガーには、アーレントも言うように、人間を社会的な存在として捉える視点はそもそもなかった。ハイデガーは、人間を他者とのかかわりにおいて生きる存在としてではなく、自分の生きることにこだわり続ける孤独な存在者として捉えていた。ハイデガーにとって人間とは、ひとりぽっちの孤独な存在者なのである。




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