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本居宣長「排蘆小船」を読む


「排蘆小船」は本居宣長の処女作と目されている。執筆時期は京都遊学中(宝暦二年乃至同七年)かその直後、宣長二十代のことと推測される。論じているテーマは「歌」である。その点、後年の歌論「石上私淑言」と重なり合うというか、ほとんど同じ議論を展開しているところから見て、両者は問題提起とそれへの完成した受け答えというような関係(萌芽と成熟の関係と言ってもよい)にある。だから「石上私淑言」を読めば、宣長の歌についての考え方は一応了解できるのであるが、「排蘆小船」にはそれなりの面白さもあるので、少なくとも読んで損することはないだろう(以下テクストには中公版「日本の名著」所収、萩原延寿による現代語訳を用いる)。

「石上私淑言」において「もののあはれ」という言葉を使って定式化されたような考えは、この処女作でも述べられている。だが「もののあはれ」という言葉は使っていない。それに相当する言葉は「風雅」という言葉である。この言葉は、漢語らしく堅いところがあるとともに、その内容にもまだこなれていないところがある。宣長は、よい歌というものは「風雅」をふまえた歌であり、風雅こそ歌の本旨だというのだが、ではその風雅とはどのようにして知られるかといえば、それは歌によってであると答えている。「風雅にそむくか、そむかないかをどうしてしるかといえば、それは歌によってである。歌によんでみて、興趣もわかず、感銘もおこらないとき、そういうこころのうごきは風雅にそむくことをしるのである」というのであるが、これでは答えのかわりに質問を提出するようなもので、一種の循環論法というべきであろう。

宣長がこのような循環論法に陥った理由は、彼がまだ歌の本旨について十分考え抜いていなかったからだと思われる。それが十分に考え抜かれ、歌の本旨がそれとして示されるのは「もののあはれ」という形によってであり、「石上私淑言」はこの「もののあはれ」を中核として、歌の本旨を十分な形で展開したのだということができよう。

このほかにも、「排蘆小船」にはユニークな部分がある。そのいくつかについて、簡単に触れておこう。

まず、「てにをは」の重要性についての宣長の議論。宣長は、「『てにをは』は、歌が一番大事にすることである。いや、歌にかぎらず、すべてわが国の言葉は、『てにをは』のはたらきによってはっきりした意味がきまるのである」と言って、「てにをは」の文法的な重要性を強調するのであるが、彼の面白いところは、日本語は「てにをは」があるために、外国(中国)の言葉より優れていると、価値判断を介在させるところにある。「わが国のことばが外国のことばにくらべていっそう明確であり、精細であるのは、『てにをは』があるためであり、外国のことばは『てにをは』を欠くため、明確さと精細さという点でわが国の言葉に及ばず、その意味がはっきりしないことがよくあるのである」というわけである。

日本語に「てにをは」があるのは膠着語としての日本語の特徴のひとつである。日本語ならずとも、膠着語の言語、たとえば朝鮮語なども、日本語の「てにをは」に相当するものがある。中国語にそれがないのは、中国語が孤立語と称される言語体系であって、そもそも「てにをは」のような「助詞」を用いないからに過ぎない。中国語には中国語に内在した文法構造があり、その文法構造に従ってどんな思想でも、明確に精細に表現することが出来る。宣長は、こういう面を全く無視して、日本語は中国語よりも文法的に明確かつ精細であるばかりか、価値的にも優れていると言っているわけである。素朴な比較論というべきであろう。

宣長がこういうことをいう背景には、中国に対する宣長の侮蔑的感情が働いているのだと思う。その侮蔑的な感情が働いて、「石上私淑言」になると、中国人全体を悪人呼ばわりするようにもなるわけである。その中国の学問といえば、まづ儒学があげられるが、この儒学が宣長の気に入らない。本場中国の儒者を罵倒するばかりか、それにかぶれた日本の儒者たちをも「くされ儒者」といって罵倒している。この連中には、人の心の動きとか風雅というものがわからないのだ、というのである。

宣長の罵倒の対象は儒者にとどまらない。歌よみの中でも近世の歌よみは、歌の道が全くわかっていないと言って罵倒の対象になる。「近世の歌の先達の中には、歌の道をふかく理解し、古語のこころをほんとうにしっているひとはひとりもいない。みな愚昧なひとばかりである。そういうひとのいうことを後生大事にかかえこんでいるため、まちがいばかりが多くなり、しだいにむかしのことばのあじわいや、むかしの歌の風情をわすれてゆく一方なのである」。その近世の人の中でも契沖だけは例外で、契沖は歌の道に通じていたと宣長は言う。だが契沖は歌を読むのは下手だった、とも宣長は言う。宣長は自分のことは棚に上げているから、自分は歌をよむのがうまいと思っていたのかもしれない。

近世以降、歌の道について「古今伝授」が重視されるようになったことについて宣長は苦言を呈している。歌の道にはもともと伝授などというものはなかった、それがあるようになったのは、東常縁などがこしらえあげたことで、紀貫之以来の相伝だなどといっているのはまちがいなくうそである、そう宣長は言うのだが、そう言う一方で、古今伝授がいまは皇室に伝えられていることには敬意を表し、「その由来をしれば実にたわいないことであっても、朝廷の威霊がその背後ではたらいていることを考えると、そういうことは絶対にないとも言い切れない」といい、「古今伝授にはまったく根拠がないが、それが朝廷の重要な行事になっていることにたいしては、敬意をはらう、これがわたしの立場である」などと、へんな尊王論を披露している。

ところで、「古今伝授」といえば、「三鳥」にかかわる言説が思い浮かぶ。古今伝授は、「三鳥」のひとつである「呼子鳥」について、その実体がいかなるものであったか説明しているのであるが、つつどり説、ハト説、山彦説とならんで、猿説をあげている。呼子鳥は猿のことだと言ったのは熊楠先生だけだと筆者は思っていて、その先生の説を、ブログに載せた今年の新年挨拶で紹介したところであったが、もしかして先生は、この説を古今伝授から受けついだのかもしれない。そうだとすれば古今伝授にもいいところがあったということになる。

もっともこのあたりについても、宣長は批判的である。彼は次のように言って、古今伝授のいい加減さを指摘している。「さて、呼子鳥のことだが、むかしのひとはこの鳥をよくしっていたし、またどこにでもいる鳥なので、よく歌によまれたのである。ところが時代が下るにつれて、この鳥はいるのだが、呼子鳥という名がつかわれなくなり、そこで後世のひとは呼子鳥がどの鳥のことをいうのかわからなくなったのである」。古今伝授はそういう事情を利用して、呼子鳥についての根拠のない説をでっちあげたと宣長はいうのだが、では宣長自身どんな鳥を呼子鳥と思っているのか、それについては触れていない(おそらくわかっていないのだと思う)。

さて、古今伝授などというものを無視して、曇りのない目で歌の道を眺めれば。最も手本とすべきは古今集以下三大集の歌である、と宣長は言う。万葉集の歌は、「きわめて質朴なものなので、その中にはつたなく、鄙俗で、見苦しい歌もまじっている」。だが人麻呂や赤人の歌は、「新古今集」にも採用されているくらいだから、手本としてもよい。なお歌の手本としては三大集がもっとも優れているが、歌そのものとしては「新古今集」がもっとも優れている。だが新古今集を手本にすべきではない。新古今集を手本とすれば、それ以上のできのものは期待できないからだ。新古今集も古今集以下の三大集を手本としたのであるから、われわれ当世の歌よみも、古今集を手本とすることで、新古今集に劣らない優れた歌をよめる可能性がある、と宣長は言うのである。


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