知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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荻生徂徠と本居宣長:野口武彦「荻生徂徠」


本居宣長をひととおり読んでみたら、その延長で荻生徂徠に関心が向いた。宣長と徂徠は、徳川時代の思想家の双璧と言える。その思想は、対極的と言ってもよいほど、違う方向を向いている。その対極性が、日本人の思想にある種の彩を添えている。日本人はすでに徳川時代において、こうした思想の多様性を経験したおかげで、明治以降もさまざまな思想を吸収消化する態勢ができていた、というふうにも言えそうである。

宣長の文章は、和語を基調にしてわかりやすい言葉で書かれているので読みやすい。それに対して徂徠の文章は、漢文調でしかもやたらと理屈ばっていて読みづらいという定評がある。そんなわけでいきなり原文の著作に当たるのはしんどい、という事情も働いて、とりあえず解説書を読んでみた次第だ。野口武彦著「荻生徂徠」がそれだ。

だがこの著作は決してわかりやすくはない。というよりかなりにこむつかしい、という印象を与える。その最大の要因は、著者自らが徂徠顔負けの凝った文章を書くということもあるが、該博な学識を遺憾なく発揮して、論旨の及ぶところ古今東西にわたりきわめて壮大なところにも由来している。読者は徂徠の思想の稜線を概観しようとして、思いよらずも著者の学識の波に飲まれてしまうのである。

こんなわけで筆者は、この本をあえぎあえぎ読み進んだのであるが、その結果得られた収穫を、覚書風に列挙してみたいと思う。いうまでもなく宣長は徂徠よりも後の時代の人であり、したがって宣長が徂徠を意識したことは指摘できるが、徂徠が宣長を意識したことはない。そんな二人について、同じような基準を用いて比較することには問題もあると思うが、そこは細かいことには目をつぶって、大略のところで比較を試みたいと思う。

まず、日本の思想史上における徂徠と宣長の位置づけ。徂徠と宣長の思想が対極的だったことは上述したとおりだが、その対極的な考え方のうちで、宣長の評判のほうが圧倒的に高かった。とくに明治維新後その傾向が顕著になる。それは明治政府による歴史上の人物への叙勲にも現れていて、宣長やその一派の学者たちが高い叙勲にあづかっているのに対して、徂徠は叙位叙勲とは無縁だった。こんなことは学問とは関係のない瑣末事にも見えるが、両者が日本人の歴史の中でどのように受け取られてきたかを考える際には、参考になる。

実際、維新後昭和の敗戦に至るまでの間、宣長の評判は非常に高かったのに対して、徂徠はほとんど無視に近い扱いを受けた。宣長が、維新の思想的なバックボーンとなった国学思想の大成者だったのに対して、徂徠のほうは、なんだかんだ言っても徳川幕府のイデオローグに過ぎなかった(とみなされていた)という事情が、これにはからんでいた。その徂徠の思想史上・学問上の価値をあらためて認識させたのは、丸山真男の功績であるが、その丸山も、すでに戦前に徂徠論の大本を執筆していたにかかわらず、それを出版するには敗戦を経なければならなかった。それほど徂徠は、時の権力に嫌われていた、ということをこの本は明らかにしている。

以上が、思想家として徂徠と宣長が受けてきた扱いの概要だが、思想内容に立ち入った両者の比較は以下のようになる。

まづ、研究姿勢というか、学問の方法論のようなものの違い。これは形式的で、非本質的な、要するに大したことではないというようにも見えるが、実はそうではない。学問にとって姿勢とか方法論というのは存外重要なのである。その姿勢のうち、彼らの間に極めて明白に映る対立は、唐(中国)へのかかわり方である。周知のように、宣長は唐を毛嫌いしていた。唐をその文化的側面において毛嫌いするに留まらず、唐人そのものの人間性をも毛嫌いした。だから、文を書くについても漢字をなるだけ排して、和語を以て書こうと努めた。

これに対して徂徠のほうは、唐かぶれといってよいほど、唐を尊重していた。その尊重ぶりは徹底したもので、唐の文献を唐の言葉つまり外国語として読もうという態度にも現れていた。実際徂徠は、明から亡命してきた知識人に、当時の中国語の手ほどきを受けていたほどである。そして中国語で中国(唐)の文献を読めない者には、学問を云々する資格はないというようなことまで言った。

つまり徂徠にあっては、唐は学問研究をするうえでの手本であったのに対して、宣長にあっては、唐は日本を堕落させる張本人として捉えられていた。当時の日本にとっては、唐は学問上問題になる唯一の外国であったわけだから、徂徠は外国に開かれた開明主義、宣長は外国をひたすらに排斥する頑固主義の徒だった、と概論してよいのではないか。

次に、徂徠が、儒学の範囲内のこととはいえ、朱子学を大いに批判して新しい学問を目指したことはよく知られている。この方面での徂徠の思想の特徴は、丸山真男が自然と作為の対立という概念セットを用いて説明したところだ。朱子学は自然を強調するあまり、現状肯定的な停滞に陥ったとして、徂徠は、聖人による作為というものを強調することで、社会はいかほどでも変革可能だということを説明して見せたわけである。徂徠のいう聖人とは、この作為の主体として捉えられている。聖人が古い秩序に代って新たな制度を作為することによって、歴史は前進してゆく。そのような進歩主義的な思想が徂徠の最大の特徴である。

これに対して宣長は、人間の作為を否定して、自然のありのままのなりゆきを重視する。作為が必要になるのは、社会が乱れている証拠であり、その原因は人間が邪悪なためである。唐(中国)は邪悪な人間ばかりが住んでいるから社会が自づから乱れる、だから制度を作ってその乱れを繕わねばならなくなる。ところが日本には素直で正直な人ばかりしかいないから、世の中は自然と治まる、そんな国には作為などというものは無用だ、というのが宣長の根本思想である。そういう点では、宣長は、徂徠以前の反動的な世界観に復古したと言えなくもない。

自然と作為の対立をめぐる徂徠と宣長の相違は、彼らの同時代認識にも反映している。徂徠は同時代に対して非常に強い危機意識を抱いていた。彼の主要な著作である「太平策」と「政談」はその危機意識を反映したものであり、どのようにして危機を克服して住みよい日本を作ってゆくかという、いわば作為の意識に貫かれている。

これに対して宣長には、同時代の社会のあり方に対する強い危機意識はないといってよい。彼が同時代に不満をもつとしたら、それは唐の影響で日本古来の醇風美俗が損なわれていると感じるところにある。それゆえ宣長にとって大事なことは、唐心を排して日本古来の伝統に帰ることである。その伝統とは、作為を排して自然のなりゆきを重視しようというものだ。

こんなわけで宣長は、古代の日本にあるべき姿の実現された手本を見、徂徠は同時代の問題を解決する為にはどのように未来を作為するか、その可能性に希望を見るわけである。


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