知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




竹内好の東京裁判観


竹内好は「日本とアジア」と題した文章の中で東京裁判をとりあげ、それを次のように性格づけた。「東京裁判は、日本国家を被告とし、文明を原告として、国家の行為である戦争を裁いた。(日本の起こした)戦争は侵略戦争であり、したがって平和への侵害であり、当然に文明への挑戦である、というのが論告および判決の要旨であった」

こうした考え方が成り立つのは、東京裁判の検事及び裁判官(一部をのぞく)が、文明一元観に立っているからだと竹内は言う。文明一元観というのは、「歴史は未開から文明への一方通行だという歴史観を軸にして世界を解釈する思想のことである」。この思想によれば、日本は文明から逸脱して野蛮の状態に陥ったのであり、その野蛮な行為を文明が裁くのは当然ということになる。

実際、日本人の間でも、こうした東京裁判の立場を評価するものが多かった。竹内はその代表として保守派の竹山道夫をあげているが、竹山の場合には、東京裁判は正しい裁判であったが、ただ文明の名で日本国家が裁かれることが心外なのだった。あの戦争は一部のファシストが起こしたもので、日本が国家として行ったことではない。したがって、日本国家が文明の名で裁かれるのは心外なのである。

こうした考え方は、もともとは福沢諭吉が主唱したものだ。福沢は日本が自立して西欧に対抗するためには、自ら文明を取り入れなければならないと考えた。彼にとっては、文明が非文明を抑圧するのは自然の勢いなので、日本もまた文明の先頭に立って、非文明から自らを離さねばならない。かれの言う「脱亜入欧」とはそういう意味だった。そこには何もアジアを侵略しようとかの野心はなくて、日本が国家として自立するためには文明の側、つまり西欧の側に立って、それと一体化するほかに道はないとの強い思いと言うか、危機感のようなものが働いていたのである。

だから福沢の思想には一定の歴史的な意義があると言えるのだが、日本が一応自立し、西欧の脅威から解放されるようになると、自ずから条件は違って来る。まだ非文明の状態にあったときには文明一元観は自らを強化するための梃として働いたが、すでに文明の状態に到達したときには、それは非文明を一方的に抑圧するための言い訳に使われる。日本がアジア諸国を相手に抑圧的に振る舞い、しかも侵略戦争まで仕掛けるについては、こうした文明一元観が言い訳として使われたわけである。

このように、日本が文明一元観に固執する限り、東京裁判の論理を有効に批判することは出来ない、というのが竹内の考えである。東京裁判の論理を有効に批判するためには、それがよって立つ分明一元観に内的批判を加え、それを徹底的に相対化しなければならない。竹内はその批判の一つのあり方として、東京裁判で唯一裁判の無効を訴えたインドのパール判事を取り上げている。

パール判事の主張とは次のようなものである。「文明の名によって行われる軍事裁判を肯定する立場は、文明の唯一存在と、その正統性を前提にして、裁判がその文明の顕現であることを承認しているのである。しかし・・・その文明は虚偽の文明であり、あるいは文明の退化である。なぜから、それは法の普遍性を冒し、真理を傷つけているからである。勝者が敗者を裁くのは、降伏を認めず、降伏を征服まで退化させるものだ」

文明の名のもとに敗者を裁けるとすることは、「当然のことのように西欧文明に基準をおいて、諸民族の価値を判断する」ことを意味し、間違った仮説の一つにすぎない。「西欧的立場よりする現代世界の統一こそが、人間歴史の継続的過程であるという論説は、歴史的事実の重大な歪曲であり、歴史家の考察力の範囲を独断的に制限するものである。

このように竹内はパール判事に依拠しながら、文明の名によって敗者を裁いた東京裁判に重大な疑問を投げかけ、竹山ら東京裁判の前提そのものを正しいと認めた日本人たちを厳しく批判する。

ところで「日本とアジア」と題したこの文章の本当の目論見は、日本が他のアジア諸国に対して行ってきたことを、批判的に解明することである。脱亜を唱えた福沢でも日本がアジアの一員であることは認めていた。そこでアジアの一員である日本が他のアジア諸国に対してとる態度は、同じアジア諸国として友好すべきという説と、日本はアジアの盟主として他のアジア諸国を支配する権利を持っているという説とに大きく分かれる。実際には悪友と謝絶するという名目でアジアとの友好がないがしろにされ、アジアを支配する方向に向かったわけだ。その場合日本による一方的な支配という無粋な表現ではなく、アジア全体を興す「興亜」という言葉がスローガンに使われた。

竹内は言う、「大筋としては、独立の手段としての『脱亜』がのちに自己目的化され、『脱亜』完成によってアジア認識の能力を失った後に内容の空疎な『興亜』が看板に掲げられた、と考えていいのではないか」

その結果どうなったか。いうまでもない。日本は文明一元観に固執した結果、アジア一裕福な国にはなったが、却って国の独立は大きく制約されるようになった。竹内がこの文章を書いた時点では、沖縄や小笠原や千島などの固有の領土を削り取られたままだったし、外交は自主決定できず、最近隣の中国・朝鮮とは国交も開けない状態だ。そんな日本の現状を竹内は、「百年たって、元の木阿弥どころか、或る意味ではもっと後退した。少なくとも、福沢が文明の本質と考えた部分では、当時より悪くなっている」と評価するのである。

竹内自身としては、日本はアジアの一員として、ほかに歩むべき道があったはずだという考えを持っているようだ。アジア諸国を「悪友」として謝絶するのではなく、かけがいのない友として遇し、自らが先頭になって平和で文化的なアジアを作り上げていくことができたはずだし、いまでもその方向に向かって舵を切り替えるべきなのだ、というのが竹内の本音だと思われる。しかしその竹内の願いは、その後実現されることはなかったと言ってよい。日本はアジアの一員として、ほかのアジア諸国から尊敬されるどころか、いまだに外国に従属している情けない民族だと思われている。

それは日本人に本当の思想が欠けているためだと竹内は考えているようだ。福沢の文明一元観はある意味の思想でありえたが、それはあくまでも時代との相関関係の中で意味をもったものだ。時代が変れば思想も自ずから変わらねばならない。ところが日本人はいつまでも古い思想である文明一元観にしがみついていた。そこから日本人の無思想ぶりに一層拍車がかかった。

竹内は言う、「思想というのはこの場合、現実に働きかけ、現実を改変し、かつ、そのことによって逆に思想の条件を作り出すものの意味である」。ところが日本人がやってきたことは、その反対で、現実につじつまをあわせて思想をこねくりまわし、そのために思想が現実との本物のかかわりを持たなくなり、ただの空疎なスローガンになりがちだった。そんな思想は思想とはいわない。エセ思想である。そう竹内は断言するわけである。





HOME | 日本の思想竹内好次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである