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江藤淳の戦後知識人批判


江藤淳が時事評論「"戦後"知識人の破産」を書いたのは、1960年安保騒動の最中である。この小論の中で江藤は、戦後知識人の破産と、彼らの主張の奇妙な空々しさを感じたと書いた。この連中を見ていると、「戦後十五年間というもの、知識人の大多数がそのうえにあぐらをかいてきた仮構の一切が破産した」と感じた、そう言うのである。

江藤が戦後知識人の代表者と見なすのは丸山真男である。江藤は丸山の思想を検討することで、戦後知識人がどのような仮構のうえに立ってきたかについて解明し、その否定的な影響を強く牽制しようとする。その丸山の思想を、江藤は「復初の説」という言葉で説明する。この言葉は丸山自身が使ったもので、もともとは朱子学の言葉だそうだが、その意味は、「事柄の本源にいつもたちかえることである」。ではその事柄の本源とは何か。それは、丸山によれば8月15日ということになる。戦後の日本人は、8月15日を戦後の日本の出発点として、つねにそこに立ち返ることによって、戦後の本源を見失わないようにしなければならない。そう丸山はこの言葉を使いながら主張したわけだが、それが江藤には気に入らないということなのだろう。

8月15日というのは、いうまでもなく日本が敗戦した日である。この日を境にして日本は、戦前の古い体制を脱ぎ捨てて、新しい国へと飛躍することができた。したがってこの日は、古い抑圧的な体制からの開放と、新しい日本の可能性に向けての希望を象徴するものになっている。そう丸山は言い、また戦後知識人のほとんどがそれに唱和したのであったが、それは江藤によれば、お人よしで無思想な連中のひとりよがりに過ぎなかった、というわけである。

江藤がこう言って丸山らを強く批判するわけは、丸山ら戦後知識人が、日本の敗戦をアメリカによる解放のように受け止めているのが間抜けのように映ったからだ。アメリカは別に日本のためを思って日本を解放したわけではない。アメリカが日本にやって来たのは、戦争の勝者として「占領地を征服するためで、それ以外のなんのためでもな」かった。それを日本の政治家たちはよくわかっていたが、知識人たちは全くわかっていなかった。だから彼らは、アメリカが自己の利益のために行ったことを、日本への贈り物として受け取るというようなバカな真似を平気で演じたのだということになる。

こうした戦後知識人のありさまを、江藤は次のように言って批判する。「やはり一種の虚脱――戦争の緊張から解放されたあとの虚脱が、知識人の眼をおおっていたためとしか考えられないであろう。虚脱に陥ったとき、人は自分が何を欲しているかに盲目となり、自分の周囲が見えなくなる。要するに物事の関係から脱落する」

つまり戦後の知識人は、戦争から解放されたことによる虚脱感から、現実を見る目を曇らされたというわけである。その曇った目で、いまだに世の中を見ようとするから、江藤のような曇りのない眼には、そらぞらしく映るというわけであろう。

江藤のこうした感じ方には一定のバイアスがひそんでいる。江藤には、丸山らが8月15日を解放と受け取ったことが、実感として全く理解できないのであるが、丸山らの世代にとっては、それは肉体感覚に裏付けられた実感だったろう。というのも、丸山以前の世代は、自分自身戦争に動員されたわけだし、その体験を通じて戦争のバカらしさと、それを遂行している指導者の無責任ぶりを、体感を通じ理解していた。ところが江藤のように、敗戦時にはまだ年端のいかない少年だったものには、戦争の意味はほとんど理解できなかっただろうし、従って戦争を悪とし、その悪からの開放を心から喜んだ気持ちも理解できなかったに違いない。

そうした戦争体験の違いが、丸山ら戦後知識人たちと、江藤らそれ以後の世代とのある種の断絶を生んだと見ることは十分可能である。

それはともかくとして、江藤は丸山ら戦後知識人を批判することによって、かれらが尊重する平和を嘲笑するつもりもないし、また彼らが後生大事にしている憲法を改正すべきだと言っているわけでもないと言うのを忘れない。1960年の当時の状況を踏まえれば、平和を嘲笑したり現行憲法を改正して明治憲法を復活しようなどとは、よほどの右翼以外には言えなかっただろう。

1960年というのは、安保反対闘争が日本の歴史上まれに見る高揚を見せた年だ。人々がこの闘争に立ち上がったのは、安保条約そのものに対する恐怖感のほかに、岸信介という特異な政治家へのアレルギーも働いていたと思われる。岸はいうまでもなくA級戦犯であって、日本を悲惨な状態に陥れた張本人だと当時の多くの人々に受け取られていた。その岸が、日本の憲法を改正し、再び戦前の体制にゆりもどそうと企んでいる。そうした危機感のようなものが広範に広がって、あの高揚をもたらしたと言える。丸山ら戦後知識人はそうした人々の危機感を一定程度反映していた側面もあり、そうした姿勢が一層戦後に獲得したものを擁護する行動を強めさせたとも考えられる。したがって丸山らの行動には、自分が体感を通じて得たものに裏付けられた切実さがある。それに対して江藤には、問題を局外から見ているような、皮肉な姿勢が感じられる。

そうした江藤の姿勢が、彼自身の内部にある反米感情に根差しているらしいことは指摘できるようだ。江藤にとってアメリカは日本の恩人などではありえない。そのアメリカを丸山ら戦後知識人はあたかも解放者のように遇している。そこに江藤は我慢のならないお人よしぶりを見たのだと思う。




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