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吉本隆明を読む


吉本隆明を読むにあたって、まず「マチウ書私論」を取り上げることから始めたい。

「マチウ書私論」は吉本隆明の評論家としての活動のスタートを画する論文だということになっているが、テーマは原始キリスト教批判である。日本人の吉本隆明が日本人を相手になぜこんな文章を書いたか、いまひとつ判然としないところがある。吉本はキリスト教徒でもないらしいから、キリスト教には大した恨みもないと思うし、ましてや原始キリスト教などというものが、彼にとっての深刻なテーマになりうるとも思われない。その原始キリスト教をなぜ吉本隆明は、自分の評論家活動のスタートにあたってテーマとして選んだのか。

「マチウ書」と吉本隆明が呼んでいるのは、新約聖書の「マタイ伝」のことだ。マタイをマチウとわざわざ言い換えているのは、フランス語版の聖書から吉本が直接訳したということらしい。これに限らず吉本は聖書の言葉をみなフランス語表記している。イエスはジェジュ、ヨハネはジャン、モーゼはモイーズと言った具合だ。普通申命記として知られているものはヂュテロノムと言い、おそらくテスタメントのことを予約と言っている(これはヴィヨンと同じ言い方だ)。いずれも日本人にとっては馴染の薄い言い方である。そんな言い方をしながら吉本隆明は一体何を言いたいのか。

吉本隆明が言いたいのは、どうやら、原始キリスト教は弱いものの開き直りだということらしい。吉本によれば原始キリスト教の母体となったユダヤ教自体にも弱いものの開きなおりのような面があるが、原始キリスト教はそれを極端な形で示したということになる。吉本によれば原始キリスト教が信者に示したものは、人間の弱さの上に開き直るという、いわば敗者の道徳であった。その敗者の道徳を語るときの原始キリスト教は、ニーチェのいう奴隷の道徳を思わせる。吉本隆明はニーチェにはあまり触れていないが、この論文を一読すると、ニーチェが哲学的に言ったことを、情動的に言い換えたというふうに伝わってくる。

ニーチェはキリスト教圏に生きた人間だから、キリスト教なり原始キリスト教なりについて批判することには十分な理由があるだろう。しかしキリスト教とはほとんど無縁な日本という国で、キリスト教徒でもない吉本隆明が原始キリスト教を批判することに、はたしてどれだけの意義があるか。しかも吉本の論調は、原始キリスト教に対してかなり戦闘的である。原始キリスト教を敵に見立ててさえいる。口汚いとまではいわぬが、罵倒に近い表現があちこちに見られる。

しかも吉本は、キリストはマチウという一人の人間が創造した架空の存在とまで言っている。これはまじめなキリスト教徒にとっては聞き捨てならない言い方だ。それも異教徒である一東洋人が、大した根拠も示さずに言っている。吉本が示している根拠は決して科学的で実証的なものとは言えない代物だ。そうしてまで原始キリスト教をおとしめる必要が果たして吉本にはどれほどあるのか。

この論文を一読すると、以上のような疑問が湧くのをとめられない。ともあれこんなわけであるから、吉本隆明のこの論文をまじめに論評する気にはなれない。

かように吉本隆明には、独断的で論争好きのところがあるので、今の時代の若い人にはとっつきにくいと思われる。しかし、かれの同時代人には結構読まれたのであるし、また、それなりの共感を生み出しもした。吉本のどこに、そうした魅力のようなものがあるのか。それについて、以下考えてみたい。


芸術的抵抗と挫折:吉本隆明の戦争責任論

吉本隆明の転向論


吉本隆明の芥川龍之介論

共同幻想論:吉本隆明の社会理論

世界認識の方法:吉本隆明とフーコーの対話

吉本隆明の竹内好批判



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