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吉本隆明の芥川龍之介論


吉本隆明の小論「芥川龍之介の死」は、芥川の死をめぐる通説に異を唱えるとともに、芥川の作家としての資質を軽侮するような内容のものである。吉本には他人を無暗に攻撃する傾向があるが、この小論ではそれがストレートに現われている。芥川を敬愛する人が読んだら不愉快になると思うし、また直接かかわりのなかった死者に向かって何故これほどまでにエクセントリックな攻撃をしかけねばならぬのか、理解に苦しむことだろう。

芥川の死(自殺)は文学史上の伝説になっていた(いまでもそうだろうと思う)。その伝説に挑戦するという形でこの小論は展開されている。伝説を流布したのは文壇仲間たちや自称評論家たちだったが、それらの論調の殆どは、芥川の自殺に社会的な背景を求めた。芥川は非常に鋭い自己意識を持っていたが、その自己意識が当時の社会状況との間に深刻な相克に陥り、その相克に耐えられなくなって、自殺したのだ。だから芥川の死は、個と社会との軋轢が生んだ悲劇であって、芥川はその意味では時代の象徴であった、というような言い方が定着しつつあった。それに対して吉本は異議を唱えたのである。

吉本は言う、芥川の死は「純然たる文学的な、また文学作品的な死であって、人間的、現実的な死ではなかった。したがって、時代思想的な死ではなかった・・・失墜した作家の文学的自然死であった」と。芥川の死に、新時代の象徴を見るような見方は浅薄な批評に過ぎないというわけである。

吉本によれば、芥川には作家としての限界があった。その限界は彼の出自に根差していた。芥川は中産下層階級に生まれたが、そうした自分の出身階級に生涯コンプレックスを持ち続けた。彼の創作活動はそのコンプレックスの現れであり、彼は創作活動を通じて、自分を出身階級の呪縛から解き放とうと努力した。しかしそれは付焼刃的なものであって、芥川の本性にあったことではない。芥川の本姓は下町の庶民感覚に根差したものなので、そうした庶民感覚を文章にしているかぎりは、精神的な破綻もなかったはずだ。ところが芥川は、自分の出身階層を嫌悪するあまり、庶民感覚とは無関係を装った。そこに無理が生じて、芥川の創作活動に深刻な影響を及ぼした。その影響が、作家としての自分の将来について芥川を悲観させ、ついには自殺させる要因となったのだ。

以上のような図式を吉本は「トンビたる中産下層庶民が、タカの真似をした」とも、「作家的名声に対するふやけた自己満足」とも書いている。つまり芥川は、贋金のようなもので、自分を本物の金にみせかけようと生涯焦り続けたが、なかなか思うようにいかないことに悲観して、生きる気力を失ったと言うわけである。

ずいぶんひどい見方だと言わねばならない。吉本はこのように芥川を断罪しながら、芥川の作品のどこに、「トンビがタカの真似をした」とか「作家的名声に対するふやけた自己満足」が読み取れるか、一切説明していない。吉本が言っていることは、芥川が中産下層階級の出身であることはたしかなのだから、彼の作品も中産下層階級にふさわしいものであるべきで、一部の童話的作品に見られるような造形的な作品は背伸びして書いたに違いない、という思い込みだけだ。

ともあれ吉本は、「自己の尾を喰って生きようとする蛇が、やがて自分自身を呑み込む外はないように、芥川は自殺によって、もはや作品構成の道がないことを自己確認したのである」と言って、芥川の死は身分不相応に背伸びしたものに与えられた罰のようなものだと結論付けている。この結論が緻密な論理には支えられておらず、吉本の一方的な思い込みに基づいていることは、この小論をよく読めば十分伝わってくることだ。

吉本のこういう言い方を聞かされると、その言葉を言った本人に返したくもなるというものだろう。吉本の理屈はマルクス主義者がよく使うもので、要するに意識は存在に規定されるという定式を、吉本なりに適用したものだろう。吉本が日頃マルクスの徒を毛嫌いしていたことはよく知られているところだが、その毛嫌いしている当の理屈を、自分の都合のよいように利用しているわけである。

意識が存在に規定されると言う点では、吉本には都合の悪い存在論的な体験がある。兵役逃れだ。吉本はこの都合の悪い過去をなんとかやりすごそうとして、それにいろいろ理屈をつけて、自分の行動を正当化しようとしてきた。しかしどんなに正当化しても、都合が悪いという感情は払拭できない。そこで、自分のこの都合の悪い体験に触れるような問題に関しては、吉本は異常な反応を見せ、自分を批判するものに対して猛然と攻撃を仕掛ける一方、世間から高い尊敬を集めるような人物に対しては、アマノジャク的に罵倒するといった態度を取りがちであった。芥川に対するこの理不尽とも言える罵倒も、その一つの現れではないかと、どうも思ってしまうのをやめられない次第だ。




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