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共同幻想論:吉本隆明の社会理論


「共同幻想論」は、吉本隆明の社会理論を体系的に論じたものだ。その特徴は、人間社会というものはまづ個人からなっていて、その個人が集まって社会を形成する一方、個人と社会との中間に家族や夫婦の関係があるとしたうえで、これら三つの層を通じてすべてについて言えることは、それらが幻想の上に成り立っているとする点だ。この考え方によれば、個人は個人幻想にその存立の基礎をもち、家族や夫婦は対幻想に、また社会は共同幻想に、それぞれ存立の基礎を持つということになる。

ここで幻想という言葉が当然気になるが、吉本はこの言葉で一体何を意味させようと意図しているのか。幻想といえば、常識的な意味では精神現象をさすから、個人についてはイメージが思い浮かぶが、社会についてはいまひとつわからないところがある。社会自体が一つの実体として幻想を抱くということはあり得ないと思うので、その社会の成員が同時に同じような幻想を抱き、その幻想が共同幻想として社会を動かしていくというイメージが浮かぶところだが、吉本の説明はどうもそれを単純に裏書きするものとは思えない。吉本の説明によれば、社会はそれ自体として自立しており、その自立した社会が個人同様にそれ自身の幻想を持つというふうにも伝わって来る。いずれにしても吉本による共同幻想の説明にはわかりにくいところがある。

個人の集まりである集団にある程度の自立性を認め、それが固有の心理状態を呈することに着目した者としてユングがいる。ユングは人間の無意識を強調した人だが、その無意識には個人的な無意識のほかに集合的無意識というものがあって、それ自体が自立したものとして自己の内部に存在根拠をもっている。これが単に個人的な無意識の集合体でないことは、集合的な無意識が個人的な無意識を強く規定すると主張する点に伺える。吉本が主張している共同幻想とは、ユングのこの集合的無意識に相当するものなのだろうか。無意識は幻想とは違った範疇のものだが、どちらも意識によって規定されないという点は共通している。人間は意識のみによってではなく、意識のコントロールの利かないものによって大きく行動を制約されていると考える点では、吉本とユングの考え方には似ているところがある。

それにしても幻想とは穏やかでない言葉だ。幻想と無意識とは違った範疇の言葉だと言ったが、その意味は、無意識が文字通り意識の不在であるのに対して、幻想のほうは、譫妄的な意識のありようという意味で、意識は現在しているということだ。要するに正常な意識の状態から逸脱した非正常な意識、あるいは失敗した意識、ないしは譫妄状態にある意識、それが幻想なのである。そうしたものがなぜ、個人の存立のみならず社会の存立まで基礎づけることができるのか。もしできるとしたら、人間というものは、現実ではなく幻の上に自分を基礎づけていることにならないか。そういう疑問は当然出て来るだろう。

こういう疑問は、吉本自身が共同幻想を含めて幻想というものの定義を正確に行っていないことに起因している。だから読み手はそこに勝手な意味を読み取ったりすることになる。これは学問とか思想の営みにとっては、褒められたことではない。

尤も全く定義していないというわけでもなく、定義らしい言い方をしているところもある。吉本は共同幻想を、「いいかえれば人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことをさしている」と言っているが、そのことで吉本が言っていることは、共同幻想とは共同的な幻想であるということと、それは観念的なものだということである。しかしこの二つのうちの一つ目はただの同義反復に過ぎないし、二つ目は幻想を観念と言い換えただけで、幻想そのものの説明にはなっていない。つまり、定義を言いながら定義になっていないわけである。

というわけで吉本は、幻想という言葉の内包的な定義には失敗している。そこで吉本は外延的な定義によって共同幻想という言葉を限定しようとかかる。外延的な定義とは、ほかのものとの差異によってそのものの特徴を浮かび上がらせる手法だ。この手法によって吉本が試みるのは、共同幻想を主として経済現象と比較して、それら相互の差異を強調することで、共同幻想の特徴を浮かび上がらせることだ。その結果吉本がたどり着いた見解は、人間社会には経済現象とは別に共同幻想というものがあって、これら二つのうちいずれかを他方に解消することは出来ないというものだった。つまり、人間社会は経済現象と(共同幻想という)精神現象とから成り立っていて、精神現象であるところの共同幻想は、それ自体が自立した営みをするものなのだ、ということを強調したかったわけである。

この主張が、当時日本の思想界を席巻していたマルクス主義的な世界観に対するアンチテーゼであったことは、見やすいところだ。吉本はマルクスの物質主義的な社会観に対して、精神主義的な社会観を以て対峙したということになる。

これで共同幻想という言葉に込めた吉本の意図がある程度明らかになったようである。彼はマルクスの唯物論的な世界観への対抗軸として自分自身の精神主義的な世界観を対置したかったのだが、その意図が先走りする余り、共同幻想というキーワードの内実を正確に定義する暇がなかった、というわけなのであろう。

中途半端ながら共同幻想という概念を提起したからには、その概念の諸様相を開示しなければならない。吉本はその作業を、柳田国男とフロイトを材料に使って遂行している。フロイトへの言及は、無意識と幻想とをある点で同一視することで成り立っているところがある。また柳田への言及はもっぱら「遠野物語」に限定されているが、吉本によれば「遠野物語」は共同幻想の見本市のようなものだということになる。

だが、柳田本人が「遠野物語」で取り上げているのは、必ずしも共同幻想のようなものではない。それらは一義的には地方に伝えられてきた説話や伝説の類なのだが、それが人々の、共同であれ、個人的であれ、幻想の産物だとは柳田は言っていない。柳田はあるところで「共同幻覚」という言葉を使っているが、その言葉に、人々が同じ事態に遭遇して、ともに同じような幻覚を見るような事態を意味させている。これは個人的な幻覚がたまたま複数の人の間で一致したという意味であって、個人とは別のレベルで共同幻想というものが働いたとは考えていない。

というわけで、吉本の柳田国男の援用にはかなり恣意的なところがある。




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