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吉本隆明の竹内好批判


吉本隆明は小論「世界史の中のアジア」で、竹内好に言及して次のように言っている。「竹内さんのアジア認識のなかにもし弱点が考えられるとすれば、竹内さんが<アジア>という場合、近代以降におけるヨーロッパとアジアとを対比させた概念だったことにあるとおもいます」と。これだけ取り出してみれば、何を言っているのかわかりにくいところがあるが、要するに、竹内はアジア特に中国を、ヨーロッパとほぼ対等のものと見ているが、それは間違った解釈だ。中国は、すくなくとも社会構造という面では、ヨーロッパの古代以前のような状態にあり、それを近代のヨーロッパと比較することはナンセンスだと言いたいようである。

竹内が近代中国を日本と比較しながら、特にヨーロッパとの関係において、その文化的な自主性を強調したことはよく知られている。近代日本が、社会構造の面でも文化的な面でもヨーロッパに全面的に屈服し、そのことで近代化を成し遂げたのに対して、近代中国はヨーロッパに簡単に屈服することはなかった。中国とヨーロッパとは構造的に異なった社会的・文化的背景があるために、もしヨーロッパの制度・文化を取り入れるとしたら、それ相応の困難をくぐらねばならない。日本の場合には、自分独自の伝統をまるきり切り捨てるという形で、その困難を回避したわけだが、中国はそうしなかった。ヨーロッパのものを取り入れるについては、それに対応する自国のものを、苦痛を伴いながら乗り越えねばならなかった。その結果、日本の近代化は外からの衝撃による外発的なものという性格を帯びたが、中国の場合には、内発的な発展という形をとった。竹内がこういう見方をするのは、彼が近代中国とヨーロッパとを、基本的には価値的優劣のない関係にあると見ていたからにほかならない。

その見方に吉本は異議を唱えたわけである。吉本によれば、「アジアという概念を、世界史のなかで時間概念としてとらえる必要が」ある。「近代の西欧が普遍性を獲得して以降の<ヨーロッパ対アジア>という概念に限定しないで、<アジア>という概念を、世界の人類が普遍的に通過した、人類の歴史段階としてとらえなければならない」

そうとらえるとアジア、つまり中国は、人類の普遍的な歴史段階のうちで、すくなくともヨーロッパと同じ段階にあるものと見るわけにはいなかい。先ほども触れたように、ヨーロッパよりはるかに遅れた段階にある。ところが日本は、ヨーロッパの制度を全面的に取り入れたこともあって、ヨーロッパと肩を並べられる段階にまで到達している。すくなくとも社会構造の面ではそうである。

こういう吉本の見方は、ヨーロッパ中心の一元的な歴史観と言ってよい。世界は単一の基準によって解釈することができる。その基準によれば、世界の最先端にはヨーロッパがあり、残りの世界は、多かれ少なかれ、それより遅れた段階にある。アジアも例外ではない。とりわけ中国について言えば、ヨーロッパの古代に相当するような段階にとどまっている。しかし、日本はそうではない。日本はヨーロッパと肩を並べられるような段階に達している。これが吉本の基本的な見方だといってよい。

吉本に批判された形の竹内は、吉本のこういう議論をとても受け入れないと思う。竹内はヨーロッパ中心の一元的な歴史観などは頭から信用していなかったし、したがってヨーロッパと中国とを、同じ基準に基づいて、単純に優劣をつけるやり方をうさんくさいと感じたはずだ。つまり、竹内と吉本では、基準の設定の仕方がまるで異なっているわけだ。それなのに、自分の基準が絶対的だとして、相手がその基準にあてはまらないと言って批判するのは、竹内にとっては不誠実なやり方と映ったに違いない。

吉本がこういう単純な歴史観を振りかざすのは、マルクスの悪い影響だと思う。そんなことを言うとマルクスが心外に感じるかもしれないから、吉本がマルクスを曲解したせいだと言ってもよい。マルクスにはたしかに、一元的で単線的な歴史の見方があった。だから中国が社会構造の面ではヨーロッパの古代以前の状態にあると位置付けたのであるし、それをアジア的専制などという、かなり価値観を感じさせる言葉で表現したわけだ。しかしマルクスは、吉本のようにはアジアを主題的にとりあげて、それがいかに遅れたものかについて、詳論しているわけではない。ことのついでに言及しているといった具合だ。マルクスにとっては、アジアは大した問題ではなかったのである。

しかしマルクスの衣鉢を担いだ形の吉本は、マルクスの歴史観の一元的で単線的な要素を拡大し、それを以て近代中国を分析しようとしたものだから、勢い、近代中国はヨーロッパよりはるかに遅れており、まともにヨーロッパと比較するのは無理だと思うに至ったのだろう。

それに対して日本は、古い自分を捨てることでヨーロッパと一体化する道を選んだ。その結果日本は、社会構造の面でも文化の面でもヨーロッパと肩を並べることができるようになった。そのことを吉本は次のように表現している。「現在、アメリカあるいは西欧で思想が危機に陥っている、袋小路に陥っているということが、かりに正しい見方であるとすれば、それを共時的に、つまり同時代的に感じうる思想的基盤が戦後日本にあるということです」

これを読むと、吉本の西欧一辺倒がよく伝わって来る。それこそ、竹内のもっとも嫌ったところだ。




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