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禅と武士:鈴木大拙「禅と日本文化」


日本には様々な仏教が栄えたが、仏教の各流派とその担い手には大雑把な対応関係を指摘できると鈴木大拙はいう。大拙は、「天台は宮家、真言は公家、禅は武家、浄土は平民」との言い表しを引用しながら、禅と武士階級との緊密な結びつきを指摘する。この言い表しの出典は明らかでないが、こう言われてみると、なるほどと思われないでもない。しかも、禅と武家とが結びつくわけは、禅が死を恐れぬことを教えるからだといい、「まじめな武士が死を克服せんとする考をもって、禅に近づくのは当然である」(大拙「禅と日本文化」)と言われてみると、余計になるほどと思われる。

武士が日常いかに死を意識していたかは、徳川時代の平和のなかでも変わらなかった。その例として大拙は「葉隠」をあげている。この書が書かれたのは十七世紀中葉で、関ヶ原の戦いから随分と経ってからのことだが、「いつにても身命を捧げる武士の覚悟を極めて強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、現代語で表現すれば、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を開放するのでなければ、成就されたためしはないと述べている」(同上)。

「葉隠」といえば「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が有名だ。ここでいう武士道とは武士としての道、あるいは武士としての心構え、と言うほどの意味だろうが、それが死ぬことを恐れないことだというわけであろう。そしてその死を恐れぬ態度を、禅が養ってくれるというふうに意識されていたのであろう。ちなみに葉隠を編纂したのは禅僧である。

この「葉隠」が着目されるようになったのには、日中戦争の影があると大拙は考えていたようである。国を挙げての大戦争を遂行するにあたって、国民すべてに、国のため、世の中のために、身命を擲つ気概が求められるようになった。その気概を教育する格好の教材として「葉隠」が注目された、と考えたようである。

「葉隠」には二つの側面があると筆者はかねがね思っていた。ひとつは、上述したような死の美学を説く側面である。もうひとつは、武士として主君に忠誠を誓うことの大切さを説く側面である。言ってみればこの書は、武士としての生き方のノウハウを教えたものであって、現代の感覚からいえばサラリーマンの処世術のような面ももっている。ただ、現代のサラリーマンには組織への忠誠が求められるばかりなのに対して、武士には主君への忠誠のほかに身命を擲つという面も付加されていたわけである。だからこそ、その側面を、戦争遂行への動機づけの手段として期待されもするわけでる。

ところで、禅が武士階級の中に強く根付くにあたっては、北條氏の特別な加護があった。なかでも時頼、時宗父子は禅の普及に大きな役割を果たした。大拙は時宗を、禅の加護者であったとともに、日本の偉大な英雄としても讃えている。時宗の長くない生涯は蒙古との戦いに捧げられた。「彼はその時、全国民の唯一の頼みであった。彼の不撓不屈の精神は全国民を支配した。彼の全存在は、一致団結した軍隊の形となって、西海の狂瀾怒濤に対する絶壁のごとく突立った」(同上)。

これは、手放しの讃え方と言ってよい。たしかに蒙古との戦いは日本の命運を決するもので、これに敗れれば、日本とその国民にどのような災厄が降りかかって来るか判ったものではなかった。それ故この戦いを指導し、それに勝利した時宗は讃えられるに値する存在だと言えなくもない。

しかし、そもそもこの戦いの原因を作ったのは北条政権だったということも忘れられてはならない。元寇は、元の方から一方的に仕掛けられたのではなく、それが生じる前には、日本と元との間の外交的な駆け引きがあった。駆け引きといっても、元の側からみれば、日本の対応はメチャクチャなもので、外交辞令もなにもあったものではなかった。数度にわたって日本に派遣した元の死者を、日本側は問答無用で切り捨ててしまったのである。日本側にも言い分はあったのだが、それを公にアナウンスすること無く、使者を問答無用で殺すということは、野蛮人のなす業だと言われても致し方がない。

従って、元との戦いは、自分で点けた火を消すようなものであった。火を点けなければ、なにもこんな戦いをする必要はなかったのである。もっとも、火を点けたのは時頼の時代のことで、時宗に直接の責任はないのかもしれないが、北条政権の責任者としては、そうも言っていられないだろう

大拙が時宗を称えるのは、政治家個人としてではなく、日本という国の指導者としてだろう。日本の指導者として、外国の侵略から日本を守った、そこが大拙の愛国心に訴えたのであろう。大拙が「禅と日本文化」を書いたのは、日中戦争たけなわの頃であり、大拙は外国にあって祖国の戦いぶりを見つめていた。そんな日本人が、愛国的になるのは、ある意味当然のことである。

この本を書いた頃には、日本人は好戦的だという風評がアメリカにはあったのだろう。大拙はこの本の中で、「日本人は決して好戦的ではない」と弁護し、その理由として、日本人は仏教徒である、ということを挙げている。仏教は平和の宗教であり、戦いを好まないというのだ。しかしこれは、アメリカ人には詭弁に聞こえたかもしれない。




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