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源了円「徳川思想小史」


源了円の「徳川思想小史」は、表題にあるとおり、徳川時代に現れた日本の思想家たちの一覧ができるようになっている。これを読んであらためて驚かされるのは、「徳川思想」の単純性である。日本の思想家と呼ばれるものたちは、徳川時代を通じて、全く同じ世界観を抱いていたということだ。それは儒教的な世界観で、多少のバリエーションはあるものの、基本的には互いに相違がなかった。二百年以上にわたって、一つの国民が全く同じ世界観を抱きながら生きていたというのは、世界史的に見ても珍しいのではないか。

更に驚くことには、徳川時代の日本人が儒教的世界観を抱くにいたった理由にあまり必然性がなかったということだ。徳川時代の日本に儒教の種を植え付けたのは、この本によれば、藤原惺窩ということになっているが、惺窩と儒教との間には必然的な関係はなかった。彼はたまたま儒教と出会い、それを弟子の林羅山に引継ぎ、その羅山の学問を徳川政権が官学として採用した。それだけのことである。ところが一旦官学として採用されるや、それは後の日本人の思考を根本的に規定するような世界観に発展した。その世界観とは、簡単にいえば名分的な秩序意識とでもいうようなものだったが、それが徳川時代に生きた人々の思想を根本的に支配した。国学者の一部を除いて、この名分的な秩序意識から自由だったものはいない。安藤昌益のような反儒教的な思想の持ち主でさえ、儒教的な語彙を用いて社会批判を展開している。要するに徳川時代というのは、この本によれば、儒教の支配した時代だったわけである。

それ故、徳川時代に輩出した数多の思想家を並べてみても、それらを相互に差別化できるような材料は殆ど無いに等しい。皆同じ世界観に立っているからである。その点では、徳川時代最高の思想家といわれる荻生徂徠も、庶民向けに俗流思想を説教して見せた心学の輩も、大して相違はないということになる。両者ともにその主張するところは、名分的な秩序論に帰するからである。国学でさえ、名分的な秩序感覚から自由ではない。唯一の例外は安藤昌益であるが、彼の場合には、日本の思想史に何らの影響も残さなかったし、今でも孤立した思想家としての扱いである。彼こそは、徳川時代の名分的な秩序に挑戦し、人間の平等を主張した唯一の人だったのだが、その影響力が他に及ばなかったことを理由に、この本は昌益については語るところが少ない。語っても無駄だと思うからだろう。その辺は、昌益に高い価値を付与したハーバート・ノーマンとは違う。ノーマンは、もし徳川時代の日本に昌益が現れていなかったら、徳川時代というのは、思想的には全くとるに足らない、つまらない時代に終わっただろうと言っている。それほど、昌益を除外した徳川時代の思想は無益だった、そうノーマンは言っているのだが、それと比較すると、この本の姿勢は、愛国的な調子を帯びている。徳川時代の日本にも、それなりに研究に値する思想があったのだ、と読者に訴えかけ、自分自身にも言い聞かせているフシがある。

儒教が思想界を支配したほか、国民の世界観をも規定したという点では、清の時代の中国や朝鮮もそうだったが、清や朝鮮が近代になって植民地的な状況に陥ったのに対して日本はそうならなかった。その理由について、この本は突っ込んだ理由を示していない。同じ儒教でも、国民の受け取り方に相違があったのか、それとも言葉は同じ儒教でも、その内実に相違があったのか、その辺については、この本は語らない。ただ、幕末期の思想家たちに、日本の独立を追及するような動きが出てきて、その気概が国の独立を保った、というような言い方をしているだけである。

幕末の思想家たちの中で、この本がもっとも評価しているのは吉田松陰だ。松蔭は儒教的な名分論を克服して、一君万民の思想を展開した。それはもともと水戸学派の儒教的な名分論から出発した考え方であったが、尊王の気持を突き詰めていくうちに、勢い万民平等の思想にゆきついた、そんなふうなことをこの本は言っている。しかし、万民平等と言っても、昌益のいうような四民の生まれながらの平等とは違う。松蔭の万民平等は、富国強兵のための方便としての平等であって、国民誰もが国を守るために命を捧げるべきだという、後の徴兵制度に通じるような思想である。

またこの本は、松蔭を平和な国際関係を模索した思想家としているが、それは事実と異なるのではないか。松蔭は、半藤一利によれば、「ものすごい膨張主義・侵略主義」だった。松陰は「幽囚録」の中で、「急いで軍備を整え、カムチャツカや琉球、朝鮮、満州、台湾、ルソン諸島を支配下におさめるべきだ」と主張している。後の日本政府は、この松蔭の主張をそのまま実行したといえるが、その侵略主義を支えた八紘一宇の思想には、はからずも儒教的な名分論が隠されていたようである。日本は武士としての立場から世界の統治者となり、中国はじめアジアの諸国はそれぞれ良民として日本の統治の手助けをするべきだ、という考え方である。

この本が松蔭に甘いのは、著者の源が戦中世代に属しているからだろう。松蔭は明治政府が維新の英雄として持ち上げたのをはじめ、日本の歴代政府によって、国民啓蒙の手本として利用され続けてきた。成瀬の映画では、子供が修身の教科書を朗読する場面が出てくるが、それは松蔭を賛美する文章である。このように、特に戦時中には、松蔭は民族の英雄として宣伝された。戦中世代の源も、それをくりかえし叩き込まれた一人なのだろう。松蔭に甘くなるのも無理はないといえよう。




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