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ハーバート・ノーマン「忘れられた思想家安藤昌益のこと」


徳川時代中期の思想家安藤昌益は、生前はほとんど無名だったし、死後も世に現れることはなかった。明治三十二年になってようやく、狩野亨吉によって掘り出されたが、一部の人の注目を浴びただけで、広く知られるまでには至らなかった。その名が日本人に広く知られるようになるのは、皮肉なことに日本人ではなくカナダ人であるハーバート・ノーマンのおかげである。ノーマンは、昌益に関する研究を「忘れられた思想家安藤昌益のこと」と題して昭和二十五年に発表したのだったが、多くの日本人はこのノーマンの研究を通じて、安藤昌益の意義を知ったのである。

ノーマンが昌益に注目したについては一定の背景があった。ノーマンは日本の近代史に関心を持つ一方、それ以前の時代である徳川封建時代についても大きな関心を持ち、とりわけ日本人自身がその時代をどう捉えていたか、特にこの時代について鋭い批判意識をもったものがいなかったか、かねがね問題意識を持っていた。そうした問題意識に立って、徳川封建体制を厳しく批判したものを追いかけたのであったが、そういう人になかなか出会えないでいたところ、ついに安藤昌益にたどり着き、これこそ徳川封建体制を徹底的に批判した唯一の日本人だという確信を持ったのだった。

ノーマンは徳川時代にもすぐれた思想家のいたことは認める。たとえば荻生徂徠、石田梅岩、加茂真淵、本居宣長などである。しかしこれらの人々は自分たちの生きていた徳川封建体制を批判することはなかった。それを当然の前提として受け入れていた。そうした姿勢は徳川時代前期の偉大な思想家新井白石と異ならなかった。白石もまた徳川封建体制を当然の前提として受け止め、批判することはなかった。白石の場合は、徳川封建体制の矛盾が激化する以前に生きたわけだから、そういう姿勢もある程度割り引いてやらねばならぬが、徂徠ら徳川時代の中期以降に生きた人にして、同時代の日本が大きな矛盾を抱えていたことに鈍感であったことは考えられない、というふうにノーマンは捉えている。そんななかで昌益こそは、同時代の日本の矛盾を激しく批判し、あるべき社会の姿を模索した、とノーマンは考えるのだ。

そんな昌益をノーマンは、同時代の日本の社会と厳しく向き合った唯一の日本人として評価する。日本にもそういうすぐれた人間が存在していた。これは日本にとって誇ってよいことである。そんな言い方をノーマンはしているが、これは逆に言うと、もし昌益が現れなかったら、日本という国は救いがたい国のままだった、と言っているに等しい。歴史の表層においては、昌益は「忘れられた思想家」として、誰に知られることもなかったわけだから、いないも同然だったわけだ。それ故歴史の表層を見る限り、日本人というのは、自分の社会と真面目に向き合おうとしない、偽善者ばかりだったということになる。ノーマンはどうも、昌益を持ち上げるのに急なあまり、その分一般の日本人を貶めているようである。

それはともあれ、ノーマンは昌益を、彼の生きた同時代の日本と密接にかかわらせながら論じる。その論点は大きく分けて二つ、一つは日本社会の現状批判、もう一つは社会のあるべき姿の模索としての昌益流ユートピア論である。現状批判は、徳川封建体制の矛盾の批判と、その体制を支えているイデオロギーへの批判となり、ユートピア論は農本主義的な理想社会の模索となってあらわれる、そうノーマンは捉えている。

昌益の現状批判は、彼の生きた時代の現状認識と密接に絡み合っている。徳川時代も中期に入ると、体制の矛盾が劇的に高まってきた。昌益は東北の片隅に暮らしていたが、そこではこうした矛盾がいっそう顕著な形で現れていた。農民は疲弊し、経済は停滞し、体制は揺らいでいた。その原因は、身分制度にあると昌益は考えた。士農工商という身分制度のなかで、実際に生産的な役割を果たしているのは農民だけで、武士をはじめほかの階級は農民に寄生しているにすぎない。農民の数に比例してそうした寄生階級の割合が大きければ、全体がなりゆかなくなるのは当然だ。こういう観点から昌益は、武士は無論商人階級をも厳しく批判する。武士については、帰農して生産者になれといい、商人についてはそもそも無用の存在だとこきおろし、世の中が有用の人間だけで構成されるようになることを主張する。

こうした体制を支えるイデオロギーとして、昌益は仏教、儒教、神道を批判した。彼が特に強く批判するのは儒教である。儒教の言う聖人のことを昌益は無頼の徒として描いている。一方神道については、仏教や儒教ほど強く批判していないが、それは日本古来の美風である農本主義的な文化を神道が体現している範囲内であって、それを逸脱した宗教的な部分については、やはり厳しく批判する。昌益は神道を、信仰として受け入れてはならないと感じたようである。

昌益が描くユートピアは、農本主義的な社会である。構成員の大部分が農業生産者であり、それに必要な範囲で工業生産者が加わる。自給自足を基本的な前提とするので、商業は不要となる。武士が無用なのはいうまでもない。こうした昌益の農本主義的な社会像を、ノーマンはフランソワ・ケネーの農本主義やイギリスのレヴェラーズと比較し、その先駆的性格を評価している。もっともこうした思想は、徳川封建体制下では到底受け入れられるものではなく、昌益はその公表を憚ったのではあるが。

ともあれノーマンは、昌益の革命思想家としての側面をとくに高く評価している。惜しむらくは昌益の思想には行動が伴わなかった。彼は自分の著作を刊行することさえ憚ったのである。徳川時代の末期近くに、本物の革命家である大塩平八郎が現れたが、彼は行動主義者であって、自分の思想を闡明した著作は残さなかった。もし彼が、昌益のように思想を著作であらわしていたら、日本の思想史ももうすこし異なった道を歩んだかもしれない、とノーマンはほのめかしている。




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