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内村鑑三「代表的日本人」


内村鑑三が「代表的日本人」を書いたのは日清戦争の最中だった。彼はこの本を英語で書いた。ということは、当面の読者を日本人ではなく、外国人に想定していたわけである。何故そのような行為をしたのか。日清戦争は近代日本が起した最初の戦争ということもあって、国内には愛国的なムードが高まっていた。内村もそのムードに染まったらしい。彼は日本人が西洋人の考えているほど低級な国民ではなく、キリスト教を受け入れる基盤も有している。だからこそ今回の戦争にも道義がある。どうもそういうことを、対外的に主張したいというのが、内村の本意だったのではないか。

内村鑑三といえば日露戦争に際しては反戦論を唱え、筋金入りの平和主義者というイメージが強いが、日清戦争の頃まではそうではなかったらしい。少なくとも日清戦争について反戦論を唱えたことはない。といって、積極的に戦争を煽ったわけでもないが、日清戦争が日本の発展のために必要な戦争だとは見ていたようである。

上述したように、この本は、日本が低級な野蛮国ではなく、高尚な歴史を有する文明国だということを主張している。そのことで、日本を西洋諸国に列する一流国として認めてほしい、そのような意図が込められているように思える。当時はまだ不平等条約が完全に改正されておらず、日本はまだ一人前の文明国として欧米諸国から認知されていなかった。だから内村のこうした国威発揚への努力は、政府による国威発揚策(日清戦争もそのひとつ)に呼応していたという側面も指摘できよう。

内村が日本を文明国と主張する最大の拠り所は、自分のような日本人がスムーズにキリスト教に改宗したことに見られるように、日本にはキリスト教を受け入れる基盤があったということにある。キリスト教を受け入れる基盤があるということは、すくなくとも低級な野蛮国ではありえないので、日本がすぐれた国であることの証拠となる。では何故日本は、すぐれた国でありえたのか。それは過去の日本に生きた代表的な日本人の生き様を見ることによって明らかになる。そうした日本人たちの考え方や生き方が、キリスト教に通じるものをもっていたが故に、自分を始め現代の日本人もキリスト教を困難なく受け入れることができたのだ。そういう論法で、内村は日本という国のすぐれている所以を闡明するのである。

内村は言う。「余は、基督教外国宣教師より、何が宗教なりやを学ばなかった。すでに、日蓮、法然、蓮如、其他敬虔なる尊敬すべき人々が、余の先輩と余とに宗教の本質を知らしめたのである」と。日本人には宗教というものについての正しい理解があった。だからこそ基督教を支障なく受け入れることができたと言うのである。そうした日本人の宗教心は、武士道と結びついて、確固とした道徳を作り上げた。内村によれば、日本人は宗教的かつ道徳的な民族なのだ。

内村がこの本でとりあげる日本人は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人である。内村はこのほか偉大な日本人として豊臣秀吉にも言及しているが、とりあえずこの五人の日本人を見ることで、日本人の本質を理解できると思っているようだ。この五人の中には、古くは日蓮上人から、維新の功労者としての西郷隆盛まで、日本という国を導いてきたものもあれば、中江藤樹のように、自ら歴史を先導するというよりも、日本人の典型を体現していたものもいる。しかしてこの五人に共通しているのは、無私を根本とした清廉な生き様である。内村がなにより尊重するのは、人間の清廉さということであって、清廉さがあればこそクリスト者にも通じるのだと主張したいようである。それ故、この五人を論じるに、その思想ではなく、その生き方が重視されるわけである。彼らの生き方を通じて、日本人の宗教意識とか道徳とかが明らかになるだろう。

西郷隆盛について内村は、「明治元年の日本の維新は西郷の維新であったと言ひ得ると思ふ」といい、「余輩は、維新は西郷なくして可能であったか如何を、疑ふものである」。こう言った上で西郷が何故維新の英雄になったのか、その理由を、西郷自身という人間の生き方、その人間性に求めている。思想や政治的な動機よりもまず、西郷という人間の生き方が、日本の歴史を動かしたというのである。ではその西郷の生き方とは如何なるものだったか。それは無私ということにつきる、と内村は言う。西郷ほど自分を粗末にした人間はいなかった。彼は生涯に二度、自分の命を捨てる決心をした。一度目は客僧の月照とともに海底に身を投げたこと、二度目は西南戦争の大義のために命を捨てたことだ。こうした西郷の無私が、人々を動かして日本を前へと進めて行ったと言うのである。

西郷にも無論政治的な考え方、思想というものがなかったわけではない。内村がもっとも注目するのは征韓論に現われた西郷の対外政策である。この点について内村は次のように言っている。「日本は、欧州列強と比肩し得る者とならんがためには、領土の大拡張と、国民精神を振起持続せしめるに足る積極政策とを必要とした。それゆえにまた、我国には東亜の指導者たるの大使命があるといふ観念が、彼には幾分なりとも有ったものと、余輩は信ずる」。

西郷が何故突然征韓論を主張するようになったか、その思想的な背景を内村は西郷の対外政策のうちに見ていたわけである。おそらく内村自身にも、西郷と同じような観念があったのだろう。それが内村をして、日清戦争の大義を納得せしめたのであろう。

上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹の三人はいずれも徳川時代に生きた日本人である。上杉鷹山は、封建領主として領地の経営に一生をささげた。二宮尊徳は庶民として自分のできうる範囲で社会に貢献したいという信念を生涯貫いた。中江藤樹は徳川時代初期の儒学(陽明学)者であるが、学問ではなく人柄を通じて人々を感化した。この三人に共通するのは、やはり無私である。彼らは自分を捨てて世の中のために働いた。その姿が人々を動かし、そこから日本人の道徳的な生き様が広がっていった。それゆえこの三人は、日本人を道徳的に感化した人物として、宗教的と言ってよいような役割を果たした、と内村は考えるわけである。

この三人の中で興味深いのは、中江藤樹が陽明学者であったということだ。西郷もまた、陽明学から大きな影響を受けた。陽明学は、徳川時代においては、朱子学の影に隠れていたが、一部の人々には大きな影響を振るっていた。大塩平八郎も陽明学から影響を受けた人物だ。大塩にしろ西郷にしろ、革命家の資質を持った人間が陽明学と結びついたというところに、内村は何らかの因縁を感じているようである。

鎌倉時代に勃興した新宗教の指導者のうち、内村は日蓮にもっとも注目する。日蓮には、世の中を立て直すという意味の革命思想があった。日本の歴史上、宗教家に対する迫害が起きたのは、日蓮に対してのものが初めてだったと内村は言っているが、その理由は日蓮の革命的な思想にあったと考えているようである。真宗にも反権力的なところはあるが、それは阿弥陀崇拝の一神教的な姿勢が、地上での他の権威を認めないという消極的な理由からくるもので、これに対して日蓮の方は、果敢に権力に反抗したという意味で、革命的であったわけである。

鎌倉時代の新宗教についての学問的な見方としては、真宗と禅を重んじる一方で、日蓮宗は軽視される傾向がある。西田幾多郎やその友人の鈴木大拙は、禅を尊び、日蓮宗は問題にしていない。鈴木大拙と和辻哲郎は真宗を高く評価しているが、それは真宗に見られる一神教的な傾向が、基督教やイスラム教などの世界宗教と共通すると見ているからだろう。

内村のこの本は、上述したように日清戦争のさなかに書かれたもので、その時点で、日本の宗教のうち日蓮宗をもっとも重視しているわけだ。その理由が日蓮の革命的な傾向を評価することにあったというのが、今の視点から見て興味深いところだ。



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