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新渡戸稲造「武士道」


「武士道」は、新渡戸稲造が病気療養の為滞在していたアメリカで、1899年に、英語で書かれた。ということは、欧米の読者に向けて書かれたということだ。当時の日本は、日清戦争で勝ったこともあり、欧米での評価も次第に変わりつつあったが、やはり半文明の段階にあって、基本的には野蛮な連中の国だという認識が強かった。そして日本人の野蛮な行動は、武士道によって支えられている、といった間違った認識が広がっていた。新渡戸はそうした認識を正し、武士道の正確な理解と、それを行動原理としている日本人のすばらしい生き方についての認識を、欧米社会に向かって促したといえるのではないか。

そんなわけだからこの本は、基本的には武士道についての弁疏を目的としたものだ。弁疏がゆきすぎて武士道礼賛に陥っているきらいがないわけではないが、武士道がいまのままの形で将来に受け継がれることはないだろうという認識も示しているので、極端にバランスを失しているというわけではない。

「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」。こう書き始める新渡戸は、「封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々道徳の道を照らしている」と主張する。武士道は制度としては死んだが、その精神はいまでも生きていて、我々の道徳を形成しているというわけである。この本はその武士道について、その起源、特性、民衆の感化、将来の見込み等について明らかにしながら、武士道の意義について、肯定的な視点から論じているものだ。

武士道の特性を構成するさまざまな要素についての議論は、退屈に傾くので言及しないが、ひとつだけ興味深いことは、新渡戸が切腹自殺を高く評価していることである。これは自殺を忌むキリスト教の考えからすれば、それ自体が許されない行為であることに加え、腹を切って死ぬという方法がいかにも野蛮な風習として受け取られがちなのだが、新渡戸は、この風習に美的な優越性を認めて、積極的に擁護している。そのあたりは、自分自身南部藩の上級武士の子として育った新渡戸の身にしみた傾向の現れなのだろう。刀剣に対する異常な嗜好も、そうした傾向の現われだと思う。同じ武士でも下級武士だった内村鑑三とは、多少違う感性を感じさせるところだ。

武士及び武士道が日本人に及ぼした影響を新渡戸は次のように言う。「過去の日本は武士の賜物である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった・・・武士は全民族の善き理想となった。『花は桜木、人は武士』と、里謡に歌われる・・・知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった」と。この辺は、徳川時代に既に、武士は余計者の階級であり、その道徳としての武士道は欺瞞そのものである、と喝破した安藤昌益とは全く方向を異にしている。

その花の武士道を新渡戸は、本居宣長の例の歌で表現している。曰く、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」。武士道こそは大和心の現われであり、それは朝日に匂う山桜のようにすばらしいものなのだと言いたいようである。また、吉田松陰の辞世の歌、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」を引用して、これもまた武士道の精神を歌ったものだと激賞している。どちらも歌としてはつまらぬものだが、そこに武士道の精神が読みこまれていることで、新渡戸にとっては比類ない素晴らしさを感じさせるものとなったわけだ。

新渡戸がこんなにも武士道にこだわるのは、日本人の生き方には、欧米人の知らぬすぐれた長所があるのであって、それこそが武士道だということを、彼ら欧米人に訴えたかったためだと思われる。彼自身の次のような言葉が、それを裏付けているようだ。

「『矮小ジャップ』の身体に溢るる忍耐、不撓ならびに勇気は日清戦争において十分に証明せられた。『これ以上に忠君愛国の国民があろうか』とは、多くの人によりて発せられた質問である。これに対して『世界無比!』と吾人の誇りやかに答えうるは、これ武士道の賜物である」

ことここに至って、武士道礼賛が愛国心の吐露になっているわけである。日清・日露戦間期には愛国心が異常に固まったことを考えれば、新渡戸のこうした反応も常軌を逸脱しているとは見えない。内村鑑三もある程度は愛国感情を吐露した。だが、新渡戸ほど熱狂的ではなかった。内村は、愛国心とキリスト信仰とをバランスさせたように見えるが、新渡戸の場合には、愛国心がキリスト教徒としての博愛精神を上回っているようだ。



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