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中井履軒と懐徳堂


子安宣邦は、「徳川思想史講義」の一章において、中井履軒と懐徳堂との興味あるかかわりについて語っている。中井履軒は、大阪の町人学校として知られた懐徳堂を象徴するような人物である、というのがその趣旨だ。

懐徳堂は、享保九年(1724)に大阪の有力商人たちの肝いりで設立された学校(学問所)で、将軍吉宗から公認されて官許学問所とはなったものの、幕府から財政支援を受けることはなく、あくまでも町人たちによる自主運営がなされた。学生としては武家の子弟も受け入れたが、町人の子弟が主体であり、町人学校としての色彩が濃厚だった。おそらく徳川時代において、町人に開かれた唯一の高等教育機関、つまり町人大学だったのではないか。

高等教育機関とはいうものの、ここを卒業したからといって、立身出世に手がかりが得られるというわけではなかった。徳川時代における人材のリクルートは、幕藩体制の身分秩序に連動していて、そこでは学問とか教養はほとんど意味を持たなかった。出世は身分的な出自によって決められていたのである。つまり、徳川時代においては、高等教育機関は社会のシステムにとっての、余剰のような扱いを受けていたわけだ。余剰であるから、高等教育に従事するものは、相応しい尊敬を受けなかった。それどころか、ごくつぶし扱いをされることが多かったのである。

そうした事態をさして熊沢蕃山は、「儒者は一人の芸者なり」と言った。儒者とは、いまでいえば大学教授のようなものである。その儒者は、社会的には芸者のような存在に過ぎない、ということは、社会の余剰として思念されていたわけである。蕃山は武士であって、自分自身も武士としての教育を受けたのであるが、武士としての立場からしても、儒者つまり学者は芸者の如き存在にすぎなかった。それほど徳川時代というのは、人間の教育に無頓着だったと言える。

武士にあってさえ、学問は余計なものなのであるから、まして町人にとっては、ほとんど無意味と言ってよかったのではないか。町人と雖も、読み書き算盤の能力は求められたので、初等教育は大きな意義を持たされたが、それとても市井の篤志家の善意にゆだねられ、社会とか権力が体系的に整備するというわけではなかった。高等教育に至っては、それが社会の出世システムと切り離されていることで、ほとんど暇つぶしくらいにしか受け取られていなかったのではないか。

その点は、人材を公開試験を通じて、社会のあらゆる層から集めた中国とは決定的に違う。いいか悪いかは別にして、中国には科挙の制度があったおかげで、高等教育には実学的な意義があった。高等教育を受けることは、科挙に合格するうえで重要なことだったし、科挙に合格すれば、立身出世の機会が与えられた。要するに高等教育は、立身出世のシステムにしっかりと組み入れられていたわけである。これに対して徳川時代の日本では、高等教育は立身出世のシステムとは、ほとんど無関係だった。そのため、高等教育は、社会にとっての余剰のように見做された。学問をすることは、ある種の贅沢だったのだ。武士でさえそうなのであるから、まして町人にとってはなおさらである。

懐徳堂は、町人相手の学問所として、上述したような性格を、開設当初から持たされた。当時は、朱子学が幕府推奨の学問であったが、朱子学というのは、武士による支配の正統性を根拠づける役割を期待されていて、したがって武士の子弟には学ぶ意味があった一方で、町人にとっては、別に階級的な利害に結びつくわけでもなく、朱子学を学ぶことの意義は、あまり高かったとはいえない。にもかかわらず懐徳堂は、開設当初こそ雑然とした学問を教えていたが、体制が固まるにつれて、朱子学を中心に教えるようになった。なにしろ、朱子学は当時の学問の主流を占めていたわけで、それを除外しては、学問としての体裁が整わなかったのだろう。懐徳堂の全盛期とされる時期には、荻生徂徠一派の古学を攻撃し、朱子学の擁護につとめたほどである。

中井履軒は、懐徳堂のなかで生まれた。父親の中井甃庵が、懐徳堂の預人(事務局長)及び学主(学長)をしていたことで、懐徳堂に生まれ、そこで育ったのである。兄の竹山も懐徳堂で育った。ともに懐徳堂で教育を受けた。教育の内容は、主に朱子学だった。したがって履軒は朱子学者として出発した。彼の学風は、朱子学関係の著作に注を施すというものだったが、それはおそらく、当時清で流行していた訓詁学の方法を意識したものだったようだ。履軒という号は、周易からとったものだが、周易は朱子学の世界観を支えるものであった。その周易の履卦に、「履道坦坦幽人貞吉(道を履むこと坦坦たり、幽人貞にして吉なり)」とある。そこから履軒幽人と号したわけである。幽人と称したのには、自嘲の意味もある。世間では役に立たないので、かすかに隠遁して生きているという意味である。つまり、学者は世間の役立たずということを、みずから開き直って言っているわけである。

世間の役立たずというばかりではなかった。余計者としても扱われた。履軒が八十四歳で死んだとき、借家の主は、旅へ出立したと公儀に届け出た。自分の家作で客死したとなれば、面倒なことに巻き込まれる恐れがあったからだ。ということは、学者がいかに世間の厄介者扱いされていたかを、この話は物語っている。学者という身分は、世間に向かって申し立てられるようなものではなかったのである。

その無用の学者が無用の学問をして一生を過ごした。それが中井履軒の生涯だった、というふうに子安の文章からは伝わって来る。無用の学問なのだから、別に変にこだわることもない。自分の好きなようにやればよい。官学の連中のような、権力への遠慮はないので、朱子学を持ち上げることもない。単に自分の研究対象として、虚心に扱えばよい。そういう研究姿勢が、履軒の文章からは伝わって来る、というのである。実際、履軒の儒学論は、儒学の外側から儒学を批判的に見ているところがある。それは儒学の呪縛から人間精神を解き放とうとする動きにつながるはずのものだったが、履軒の学問には、そういう改革的なエネルギーはなかった、というのが子安の評価のようである。

履軒は儒学を相対化する一方で、西洋の学問特に天文学をどん欲に学んだ。天文学の他にも、解剖学を含めさまざまな分野の自然科学に興味を示した。彼は自分の居住する家を天楽楼と名づけ、あるいは自分自身を華胥国王と名乗った。華胥国というのは、列子が言及している伝説のなかで、黄帝が夢で見たという無為自然の理想郷をさしている。役立たずの学者が住むには、これ以上に理想的なところはない、そんな気持ちを込めたものと思われる。



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