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賀茂真淵と本居宣長:子安宣邦「江戸思想史講義」


徳川時代の思想の歴史的展開は、まず官学とされた朱子学が主流を占めることから始まり、朱子学を乗り越えて、古いつまり本来的な儒学としての古学へと遡及してゆき、果ては儒学そのものへの疑問へと発展していくのだが、その到達点として、賀茂真淵と本居宣長による国学を位置づけることができる、というふうに子安宣邦は考えているようである。そのようなものとして国学は、徳川時代の思想の到達点であり、かつ近代日本への橋渡しをしたということになる。近代日本とは、明治絶対主義の国家体制をいい、それを思想的に支えるものとして、強力な国家意識があった。その国家意識の成立に、国学は多大な役割を果たしたわけである。

賀茂真淵の江戸思想史における意義は、儒学の否定にある。真淵は、万葉の時代を日本の理想的なあり方が実現されていた時代ととらえ、それ以後はそれからの堕落の歴史だとした。その堕落をもたらしたのは漢意である。つまり中国の学問が日本に入ってくることによって、日本本来のうるわしい精神が汚染され、日本は堕落したというのである。それゆえ、日本が再びうるわしい国に帰るためには、漢意を排斥して、万葉の時代の精神に戻らねばならない、というのが真淵の主張だった。とりあえずは、儒学を全面的に否定し、万葉集を学ぶこと、あるいは体得することが、肝要とされた。

本居宣長が賀茂真淵に師事したのは四十一歳の時で、宣長はすでに自分の学問を形成していたから、真淵の教えに全面的に従ったとはいえない。真淵と共鳴したというのが本当のところで、実質的な師弟関係にあったはいえない。実際宣長は真淵に対して無礼に振る舞い、真淵から絶交を宣言されているくらいである。だが、両者の間には、漢意の排撃と日本的なものの重視という共通点があった。漢意の排撃という点では、宣長のほうが徹底している。宣長は、中国人は野蛮な連中でかつ悪人であるから、それを真似てはいけないとまで言った

真淵と宣長の相違は、かれらの理想的な日本観にあったといえる。真淵は万葉の時代を理想とした。それに対して宣長は平安時代の王朝の美学を理想とした。宣長は源氏物語の美学を基準にして日本的な理想を語り、万葉集について語ることはあまりなかった。宣長は生涯に夥しい数の和歌を詠んだが、それらはみな王朝風のつきなみなものである。宣長の詠んだ歌を真淵は、「うたともなし」とか「いやし」とか言ってけなしている。

宣長はとにかく歌を詠むのが好きだった。宣長は松坂の知識人たちと歌会を組織して、そこで頻繁に歌を詠んだのだったが、その歌会は堂上人の歌会を真似したもので、したがって王朝風の間延びした歌が作られていた。そんな歌は真淵にとっては、歌の名に値しないのであった。実際宣長の詠んだ歌は、真淵の指摘を待つまでもなく、へたくそなものばかりである。有名な「敷島の大和心をひと問はば朝日ににほふ山桜花」などは、明治以降の軍国主義が大いに宣伝したものだったが、歌としては陳腐としかいいようがない。宣長の歌はどれもみなこんな調子である。そんな歌を歌うために人生の大きな部分を無駄に過ごしたと言われても、宣長には返す言葉がないのではないか。

真淵と宣長とは、相違点もあるが共通点もある。共通点の最たるものが、漢意の排撃と国粋的な意識である。その国粋的な意識が、日本の近代化の過程で大いに利用された。その場合に彼らの役割には、多少の相違があった。その相違は、先に言及した彼らの相違点に根差している。真淵の影響は、明治以降の和歌の革新を通じて、日本人の美意識に訴えるところから現われた。子規が万葉集を「再発見」して以来、万葉集はアララギ派を通じて、大いに喧伝された。「万葉に帰れ」が合言葉になり、万葉風の歌がもてはやされたが、その歌を通じて日本的なるものが再評価され、日本人の国民としての一体性が強調されもした。

一方宣長の思想は、幕末の尊王攘夷論に大きな影響を与え、政治思想における国権主義の確立へとつながっていったと言えるのではないか。ともあれ、真淵と宣長によって体現された国学が、徳川時代の思想の行き着いた形として、近代日本の思想へとつながっていったと言えるようである。

以上は、子安の本を読んで小生が抱いた考えを披露したもので、かならずしも子安と全面一致するわけではない。子安は、真淵や宣長の具体的に展開して見せた業績にもっと寄り添った見方をしている。そのなかでひとつ面白い指摘がある。かの「日の神論争」をめぐる逸話のようなものである。この論争は、宣長と秋成との間で交わされた、多分に感情的なやりとりに評者の関心が集中して、そもそもの発端となった藤貞幹の「衝口発」が詳しく言及されることはなかったのだが、子安はその「衝口発」の内容を詳しく紹介して、この論争の意味合いを、違った視点からあぶりだしているのである。

子安によれば、「『日本紀』の成立の時期にはるかに先立つ時代の日本古代社会を藤貞幹は韓文化・風俗とその言語の影響下に、あるいは支配下にあったものと見なしている。そして『日本紀』の編纂事業に象徴的に示されるような日本古代国家の自律的な展開過程はその事態を、すなわちそれに先立つ時代が韓の政治・文化の強い影響下にあったという事態をまさしく掩蔽し、あたかも『此国きりにて、何事もできた』かのようにみなそうとしているという・・・『衝口発』がやろうとしているのは一国史的な国家の成立史、国家的始原の語りの解体的な読み出しだということができる」

こうした藤の説は、まさしく宣長の説に全面的に挑戦すると見られる。したがって宣長が反発するには相当の理由があるわけである。宣長は早速藤の批判にとりかかるが、そのやり方がいかにも宣長らしい。藤を狂人に同定して、健全な心をもった宣長が、その狂人をたわめるというのである。そこには宣長の異常な性格があらわれているわけで、その異常さを秋成が感じ取って、彼流のやり方でそれをからかったというのが、「日の神論争」の実態だったと言えるのである。この論争について、子安はどちらに肩入れするわけではない。ただ宣長の「古事記伝」が、藤の指摘するところの「一国史的な国家の成立史」であったことを指摘するだけである。



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