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幸徳秋水の平民主義


幸徳秋水が明治40年(1907)の4月に刊行した著書「平民主義」は、小引にあるとおり、明治36年の冬から同39年の冬までに、様々な媒体に発表した文章を集めたもので、時事評論集といってよい。この三年間という期間は、短いながらも秋水にとっては、激動の時代と言ってよかった。明治36年にはすでに筋金入りの社会主義者になっていた秋水は、37年に日露戦争が勃発するや非戦論を唱え、それがもとで翌38年の2月に逮捕、有罪判決を受けて、五か月間巣鴨の刑務所に投獄された。出獄後も弾圧の手が緩まないのを見て、同年の11月に横浜から船に乗り、サンフランシスコに亡命した。ここで現地の社会主義者などと交流し、大地震などにも遭遇した。そして39年の6月に帰国し、引き続き政治活動に従事しつつ、官憲の憎悪を一身に集めるようになっていったわけだ。秋水が、官憲のフレームアップにからめとられるのは、43年(1910)6月のことである。

構成としては、「社会主義」、「非戦論」、「思想と趣味」、「下獄と外遊」の四部に章立てし、それぞれの章に関連する評論を収めている。全体の印象としては、社会主義の宣伝に始まり、日露戦争への反対、投獄と亡命中のことがら、という具合に展開してゆく。「平民主義」という題名は、秋水の主な宣伝媒体であった雑誌「平民新聞」からとったもので、秋水としては、社会主義の別名としての意義を持っていたと考えられる。この著作は、刊行即発禁処分となった。官憲がいかに秋水を危険視していたかを物語るエピソードである。

「序にかえて」のなかで秋水は次のように言っている。「私は正直に告白する。私の社会主義運動の手段・方針に関する意見は、一昨年の入獄からすこしく変化し、さらに昨年の旅行で大きく変化し、いまや数年以前を振り返ると、われながら、ほとんど別人の感がある」と。では、どう変化したのか。これについては、次のように言う。「かの普通選挙や議会政策では、ほんとうの社会的革命をなしとげることは、とうていできない。社会主義の目的を達成するには、一に団結せる労働者の直接行動<ダイレクト・アクション>によるのほかはない」と(中公版日本の名著、伊藤整責任編集による現代語訳、以下同じ)。

なぜ、こう思うようになったのか。これについては次のように言う。「私は以前、ドイツ社会主義者、もしくはその流れをくむ諸先輩の意見だけを聞いて、あまりにも投票と議会の効力に重きをおいた。『普通選挙が実現されたら、かならず多くの同志が選出される。同志が議会の多数を占めたら、議会の決議で社会主義が実行できる』と。しかしことはそう単純ではないことに気づいた。秋水はそのわけを、次のように言う。「単に国会開設を目的とし、議会の多数を占めることを目的としてすすんだ党が、その目的を達成したかと思うと、すぐに腐敗してしまうのは、当然である。もしも社会党が、このように投票の多数、議席の多数という世俗的勢力に目がくらみ、ヨダレを流して、多数の獲得をその第一着の事業にするようでは、『殷鑑遠からず』、自由党の末路にある。その前途は、きわめて危険といわなくてはならぬ」と。

そこで秋水はこう思うのだ。「労働者のがわに真に自覚と団結ができるならば、彼らの直接行動でなにごともできるではないか。いまさら、代議士を選び、議会に頼む必要はないのである」と。ここで秋水が直接行動と言っているのは、大規模なものとしてはゼネラル・ストライキ、小規模なものとしては職場でのサボタージュなどを想定しているらしい。

秋水がここまで思い詰めたには相応のわけがある。当時の日本はいまだ普通選挙権も実現しておらず、労働者がその代表を議会に送り込むということができていなかったばかりか、せっかく代表に選んだ代議士たちも、かならずしも労働者の利益を代表せず、自分らの個人的な利害に目がくらむようになるのは、かつての自由党と同じことだ。そういう代議政治のあり方には多くを期待できない。だから労働者自らが直接行動に立ち上がり、それを通じて自らの利害の貫徹を追求するばかりか、社会革命をも展望できるではないか、というわけである。この秋水の見方については、当時の日本の労働者が置かれた境遇からして、ユートピア的な発想だとの批判も成り立つだろうが、当の秋水としてみれば、彼の生きていた時代を前提として、そのなかで労働者がどれだけのことをなしうるのか、ぎりぎりに考えた結果だと考えてやることもできる。

秋水自ら言っているように、労働者による直接行動論に傾くようになったについては、アメリカへの亡命が大きな契機になったようだ。そこで秋水は、クロポトキンとかバクーニン、プルードンといった無政府主義的な傾向に接することを通じて、マルクス主義的な社会革命理論から、無政府主義的な直接行動論に傾いて行ったのだと思える。秋水の理解によるマルクス主義とは、ある種の必然論であって、歴史というものは、進歩するようにできている。資本主義から社会主義への変化も、そうした歴史上の避けがたい進歩なのであって、機が熟すれば必然的に起こる出来事だ、というような楽天的な見方があった。ところが、秋水の生きている日本では、そうした楽天主義はとても評価に耐えるものではない。進歩というものは、棚から牡丹餅式に訪れるのではなく、人間の積極的な介入によって起こるものだ。したがって社会革命を実現しようとしたら、徒手空拳でそれを待ち望んでいるのではなく、革命の主体たる労働者自体が、その実現に向けて立ち上がらねばならない。すなわち直接行動である。そう秋水は考えるようになったようだ。

そういうわけで秋水は呼びかけるのだ。「同志諸君。私は以上の理由で、わが日本の社会主義運動は、今後議会対策をとることをやめて、もっぱら団結した労働者の直接行動をもって、その手段・方針に採用することを望むのである」と。

もっとも秋水はこう言ったからといって、自分自身が直接行動に向けて過激な行動をとったということはない。彼の言動はひきつづき穏やかなものにとどまった。しかし主張におけるこの過激な要素が官憲を必要以上に刺激したことは十分に考えられるのであり、それが秋水がフレームアップに絡められて殺されることの重要な要因になったのではないか。





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