知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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幸徳秋水の基督抹殺論


「基督抹殺論」は秋水の遺書のようなものである。彼はこの本を、大逆事件で捕らえられるその年に書き始め、監獄のなかで脱稿した。友人の好意によって出版されたのは、死刑執行の数日後である。秋水の書いた本としてはめずらしく発禁処分を受けなかった。それについては秋水自身、「これなら、マサカに禁止の恐れもあるまい。僕のは、神話としての外、歴史の人物としての基督を、全く抹殺してしまふといふのだ」と手紙のなかで書いている。

この言葉にあるとおり、秋水がこの本で企てたのは、歴史上における基督の存在を否定し、キリスト教の教義内容についても、キリスト教成立以前の雑多な宗教的・文化的な迷信を取り混ぜたものに過ぎないということを明らかにすることだった。秋水は、十字架は男根の象徴であり、マリア信仰は女陰崇拝の名残だと喝破したが、これらはいずれも、キリスト教以前の未開の表象がキリスト教に紛れ込んだものだと主張するのである。

秋水がなぜこんな企てをする気になったか、いまひとつ明らかではない。キリスト教国でならまだしも、国民の大多数がキリスト教に無関心か、あるいは軽蔑感を抱いている日本のような国において、ことあらためてキリスト教批判を行ったり、基督の実在を否定すべき切羽詰まった理由は見当たらない。秋水本人は明示的には言っていないが、おそらくキリスト教をめぐる個人的な体験が影に働いているのかもしれない。

一つ考えられるのは、アメリカにおける体験だ。秋水は、平民新聞の筆禍事件で逮捕・投獄されたのがきっかけでサンフランシスコに亡命したが、その際にアメリカの無政府主義者たちと交流し、自身も無政府主義者としての自覚を深めた。無政府主義者のほとんどは無神論者であり、欧米の無神論者はキリスト教を攻撃するクセがあるので、秋水もそれにかぶれた、と考えられなくもない。

もう一つは、親友の木下尚江以下、当時の日本の社会主義運動にキリスト教者が多くかかわっていたこともあるだろう。秋水が彼らの蒙を開き、科学的社会主義の精神を叩き込むうえで、基督批判をする必要を感じたとしても無理はない。

もっともこの本は、監獄のなかで書かれたという事情もあって、学問的な厳密さはあまり期待できないようだし、その主張もほとんどが外国の学者たちの受け売りにとどまっている。十字架が男根の象徴であり、マリア信仰が女陰崇拝の表われだとする主張においては、やや秋水らしいひらめきも混ざっているが、言説の大部分は引用やら孫引きで占められている。そういう部分については、学問的な価値はほとんど認められないのだが、秋水のキリスト教批判への情熱は伝わってくる。

それにしても、著作の結語として次のような言葉を聞かされるにおいては、つい頬が緩んでしまうというものである。すなわち秋水曰く、「故に予は下の宣言を以て擱筆す。曰く、基督教徒が基督を以て史的人物となし、其伝記を以て史的事実となすは、迷妄なり、虚偽也。迷妄は進歩を妨げ、虚偽は世道を害す。断じて之を許すべからず。即ち彼が仮面を奪ひ、粉粧を剥ぎて、其真相実体を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」

実際には、秋水のこんな宣言で抹殺されうるほどキリスト教はやわではないし、ましてやもともとキリストの影が薄い日本では、秋水のこの宣言になにほどの効果があったか、心もとないものがある。





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