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道得と葛藤:和辻哲郎の道元論


道元の思想は、我々現代の凡俗にはなかなか理解し難く、その著作「正法眼蔵」を読み解くのは容易なことではない。和辻もその全体像には通じていないと謙遜しているが、彼なりの読み方を「沙門道元」の中で披露している。道元には、精進とか仏性とかいった根本概念がいくつかあるのだが、和辻はその中から「道得(どうて)」と「葛藤」をとりあげて、道元の概念的な思考の特徴を彼なりに分析する。それがなかなか興味深い論じ方なのである。

道得についての議論は、岩波文庫版「正法眼蔵」(二)の第三十三に出てくる。和辻はそれを取り上げながら、道元が道得をどのように捉えているか問題にするのである。道元のテクストには「諸仏諸祖は道得なり」という具合にいきなり道得という言葉が出てくるのだが、道元はこの言葉について、明確な規定をせずに使っている。あたかも、この文章を読むものは、道得の如何なるものかを当然知っていることを前提としているかのように。

そこで和辻が、この道得という言葉の意義について忖度するのである。和辻は言う。「道とはまず『言う』である。従ってまた言葉である。更に真理を現わす言葉であり、真理そのものである。菩提すなわち悟りの訳語としてもこの語が用いられた。道元はこれらすべての意味を含めてこの語を使っているらしい。その点でこの語はかなり近くLogos に対等する。道得とは「道(い)い得る」ことである。進んでは菩提の道を道い得ることである。従って真理の表現、真理の獲得の意味にもなる。ここでも道元は、これらすべての意味を含めてこの語を使った」(「沙門道元」)

道という漢字には古来「いう」という意味があり、現代中国語でもそれは受け継がれている。和辻は道という字に含まれているこの意味を手がかりにして、道元のいう道得の意味を考察するわけである。それによれば、道得とは、「言い得る」を意味し、また「言いえられたこと」を意味する。そしてそこから進んで言われたことの真理を意味するようになり、更に又真理そのものを意味するようにもなる、という具合になる。

つまり和辻はここで、言葉の語源を手がかりにして、その意味を考察しているわけだ。その結果和辻がたどり着いたものは、道元はこの道得という言葉を通じて、極めて論理的な思考をしているという結論である。道元は、宗教者ではあったが、宗教における感情的・非合理的な要素よりも、概念的・合理的な要素を重んじた、と和辻は言いたいようである。概念的・合理的な思考なら我々現代の日本人はもとより、外国人にも理解できないことはない。特殊な感情にかかわることはそうはいかない。ロゴスを重んじる哲学者としての和辻は、道元を論理的な思想家とすることによって、その思想がいまもなお生きているのだと言いたいようである。

葛藤についての道元の議論は、上記「正法眼蔵」第三十八で展開されている。そこでは葛藤についてまず次のように書かれている。「おほよそ諸聖ともに葛藤の根源を截断する産学に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截断といふを産学せず、葛藤をもて葛藤をまつふとしらず。いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし。道著せる、いまだあらず。証著せる、おほからんや」

道元は相変わらず、葛藤の字義を明らかにしないままに、葛藤という言葉を使っている。そこで例によって和辻が、葛藤の字義について、道元に代って解釈するというわけだ。和辻はいう。「葛藤とはかずらやふじである。蔓がうねうねとからまりついて解き難き纏繞の相を見せる。そこからもつれもめることの形容となり、ひいては争論の意に用いられる。ところで人間の見解は人ごとに相違し、もし一つの見解に達せんとすれば必ずそこに争論を生ずる。すなわち思惟は必ず葛藤を生む。従って神秘的認識に執する禅宗にあっては、思惟は葛藤であるとして斥けられる。しかるに道元は、この葛藤こそまさに仏法を真に伝えるものだと主張するのである」

葛藤という漢字で古来意味されてきたのは、相反する事態に面して、あれかこれかと思い悩む心の働きのことで、その意味では、個人の内面にかかわることを言い表した言葉である。それを和辻は、人々の間の意見の相違をめぐって生ずる争論の意味にとるわけだが、その意味合いを、葛藤という漢字に含まれている意味から、つまり語源から解釈しなおすわけである。たしかに道元の文章を読んでいる限り、葛藤が個人の内面を現わす言葉と断定できないところがあり、和辻の言い分にも一理あるような思いをさせられる。

この葛藤についての議論を和辻は、道得すなわち真理の一つのあり方として取り上げているわけだが、葛藤といい、道得といい、和辻は道元の明言していないことについて、自分の解釈を持ち出して、自分流の議論を展開している。それを読むと、そういう解釈もあるのかと感心させられる一方、それは斜め読みではないかとの疑問も湧いてくる。

和辻が自分の議論の足がかりにしているのは、言葉についての語源的な再解釈である。その作業を通じて言葉に新しい意味を付与し、それに基づいて自分なりの解釈を展開する、というのがここでの和辻のやり方である。

和辻の議論の著しい特徴に、語源にもとづいた言葉の再解釈というものがある。これを和辻は、ハイデガーに学ぶことで、哲学の鋭利な武器としたのであろうが、彼がハイデガーに接するのは1930年代以降のことだ。だが(それ以前の)以上の議論を展開している文章を書いた時点で、和辻はすでに語源解釈的な手法を駆使しているということがわかる。和辻には、ハイデガーとは別に、語源にもとづいた言葉遊びの傾向が若い頃からあったようである。





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