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福沢諭吉の欧米体験


福沢諭吉は青年時代に三度にわたって欧米諸国に渡航した。万延元年(1860年、25歳)の渡米、文久二年(1862年、27歳)の渡欧、そして慶応三年(1867年、32歳)の再度の渡米である。これらの欧米体験によって福沢の視野は飛躍的に広がり、明治の啓蒙思想家として、巨大な影響力を及ぼすようになっていくのである。

最初の渡米は福沢の果敢な姿勢から実現した。安政六年の冬に徳川幕府がアメリカに軍艦を派遣する決定をしたという話を聞いた福沢は自分も是非行ってみたいと思った。福沢は幕府には何のかかわりもなかったが、とにかく一行にもぐり込んでアメリカに渡り、英学の勉強を深めたいと思ったのである。

そこで福沢は果敢に行動した。派遣される軍艦は咸臨丸といって、艦長は旗本木村摂津守、副官の勝麟太郎以下数十名が随従することになっていた。そこで福沢は、木村の家来の身分で随従できないかと考え、一面識もない木村に直談判に及び、連れて行ってくれと頼んだ。すると意外なことに、木村は即座に許してくれたのだった。というのも、自分の家来たちはみな、アメリカに行くことなどとんでもない災厄と考え、行きたがらなかったからである。

咸臨丸は三十七日かけてサンフランシスコに着いた。わずか六百二十トンの小さな船に総勢九十六人もの人間が詰め込まれたのであるから、航海は窮屈であったようだ。だが生来丈夫な体が自慢の福沢は、船酔いすることもなかったらしい。一方勝麟太郎の方は、指揮官の身分であったが、航海を楽しむどころではなかったようだ。その勝と福沢はあまり仲がよくなかったらしく、福沢はこの歴史的快挙の中心物である勝のことを、ほとんど問題にしていない。(勝にしてみれば、福沢はただの下級の随従員にすぎなかったわけだが)

サンフランシスコに上陸すると、土地の名士たちから熱烈歓迎を受けた。まず歓迎の祝砲から始まり、大袈裟なレセプションや大宴会が続いた。福沢の目には、アメリカという国が、何から何まで新鮮に映った。なかでも最も驚いたのは、ワシントンの子孫について、多くのアメリカ人が全く気にしていないということであった。ワシントンは初代アメリカ大統領であるから、日本でいえば、家康のような存在に違いない、そう福沢は考えていたわけだが、それがまったく違っていた。そこで福沢は、アメリカの日本と最も違うところは、封建門閥が存在せず、人々はみな平等だと思い知った。そのなかでも女性の地位は高く、ほとんど女尊男卑といってもよい。女性が男の付属物のように扱われている日本とは大違いだ。

福沢は艦長の家来格として、身分は低かったわけだが、そこは福沢のこと、身分の差などあまり気にせずに、かなり自由に行動している。渡米中にアメリカの少女と一緒に写した写真などは、いまでは福沢の若い頃の面影を伝えるものとして知らぬ人もないくらいだが、自分一人で写真屋を訪ね、店の娘に一緒にとろうと誘ってとったものだ。

日本へ戻った後、福沢は従来通り中津藩のために教授を勤めていたが、そのうちに幕府に雇われることになった。外国から日本政府宛に届いた書簡を翻訳したり、幕府側からの外国宛の書簡を英語に翻訳したりすることなどが、主な仕事だった。

こんなわけで、文久二年に幕府が渡欧使節団を派遣することとなった際には、福沢は幕府の公式の役人として加わることになった。その際に福沢は、支度金として四百両を下賜された。四百両といえば大金である。そこで福沢は百両をさいて中津の母親に送り、残りの三百両は現地で書籍を購入する費用にあてることとした。

船はイギリスから迎えに来た軍艦で、文久元年の十二月に出航し、インド洋を航海してスエズまでいった。一行はそこから汽車に乗ってカイロに行き、そこから地中海に出て、別の船に乗り換えてマルセーユに上陸した。マルセーユからは、パリ、ロンドン、オランダ、ベルリン、ペテルスブルグとまわり、再びパリに戻ったあと、船でポルトガルに行き、そこから地中海を経て、もとのとおりの順路を日本まで帰って来た。出港してから帰国するまで約一年間。福沢はこの間に、渡米の時より更に一段と世界に対して目を開いたのである。

ヨーロッパの諸都市はアメリカのサンフランシスコよりはるかに文明的であったから、福沢は彼我の文明の差をいっそう思い知らされることになった。たとえばトイレ。使節団の身分の高いものがトイレに入ると、殿さまの御用だというので、家来たちはトイレの二重の扉を開いたまま、殿さまが用を足す間、傍に仕えて見張っている(尻拭いまでしたかどうかはわからぬが)。ヨーロッパのトイレは、ごくプライベートな空間であると考えられているから、こんなところをヨーロッパ人に見られたら、さぞ野蛮人と思われるだろうと、福沢は冷や汗をかいたという。

ホテルはどこへ行っても快適だった。使節団は長旅に備えて、米味噌を始め生活に必要な膨大な物資を持参していたが、米味噌は無論、殆どなにもかも無用になった。そこで、持参してきた品物をほとんど廃棄してしまった。

訪れた国の中でもっとも居心地がよかったのはオランダだった。オランダは昔からの友好の誼があるから、オランダ側も自分たちを暖かく迎えてくれ、自分たちもオランダを自分の国のように感じることが出来たというのである。

逆に居心地があまりよくなかったのはロシアだったようだ。というのも、日本とロシアとの間には様々な外交的懸案があって、友好一点張りとはいかなかったからだ。当時の日本は樺太の帰属をめぐって、ロシアとの間に緊張関係にあったが、その話題をこちらから持ち出すと、ロシア側はいっさい取り合わなかったという。

ひとつ福沢が面白いと思ったのは、ロシア人からロシアに留まるようしつこく誘われたことだ。福沢は無論断ったが、ロシア人がそんなことをいうのは、日本の事情を知るための方便だったのだろうと回想し、ロシアの一種の恐ろしさのようなものを指摘している。

一行がパリに戻って来ると、以前と違って暖かい雰囲気が感じられない。むしろとげとげしいような雰囲気を感じる。それは、イギリス人が生麦村で日本人に切り殺されるという事件が伝えられて、ヨーロッパ人の対日感情が悪化していたことの現れだったらしい。

ともあれ、この渡欧中に、福沢は大量の書籍を購入して、それらを日本に持ち帰った。いまでいう輸入の始めだと福沢は言っているが、これらの書籍が日本の近代化のために大活躍をするわけである。

慶応三年の訪米使節団の目的は、先年注文した軍艦の引き渡しを求めにいくというものだった。一行は太平洋からパナマ地峡を経て大西洋に出、そこから船でニューヨークに着き、ワシントンに落ち着いた。

この船の注文については複雑ないきさつがあった。売買の交渉にあたったアメリカ人は公使のブライアンという人であったが、この人に幕府は代金として80万ドルの金を預けた。そのうち四十万ドル分の船は届いたが、残りの四十万ドル分がなかなか届かない。そのうちブライアンは交渉担当から外れてしまい、誰を相手に契約の履行を求めたらよいかわからない。そこで使節団を派遣して、直に交渉させようということになったのだった。

福沢にとって意外だったのは、この契約が単なる口約束の上に成り立っていて、まともな書類が残されていない。ということは、拒絶されても仕方がないということである。ところがアメリカの交渉窓口の担当者は、日本側の言い分に理解を示し、契約の有効性を認めたうえで、さっそく適当な軍艦を届けようと約束してくれたのだった。

これは余談だがといって、福沢は面白い話を披露している。約束の船は翌明治元年に届いたが、その際に日本の会計係が船の代金として何十万ドルも仕払ったと聞かされびっくりした。福沢は、アメリカ側がそんな金を受け取るはずはないから、誰かがどさくさに紛れてその金を横領したのであろうと推測している。

こういうわけで、福沢はまだ徳川幕府が存続している間に三回も欧米に渡航した。その経験は福沢にとっては無論、日本という国にとっても貴重なものであったに違いない。




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