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忠誠と反逆:丸山真男の抵抗論


丸山真男の日本ファシズム論は、戦後の日本政治学、とりわけ日本政治の分析枠組として、非常に大きな影響を及ぼした。その影響のあり方は、評価する者に対する影響のみならず、批判する者さえ呪縛するようなものだったと言える。戦後の日本政治学は、良くも悪しくも、丸山真男を出発点とし、その理論と格闘しながら進んできたといってよいほどだ。

丸山の日本ファシズム論の特徴を単純化していえばつぎのようになる。日本のファシズム体制を指導した連中の無責任性が一方にあり、国民の大多数が指導者の無責任な暴走ぶりを許した無気力性がもう一方にある。なぜそうなったのか。それを根本的に規定していたのは、指導者を含めて国民の中に、主体的な自由の意識が欠けていたからだ。上は最高権力者たる天皇から、下は底辺の一般民衆にいたるまで、どの階層をとっても主体的自由の意識の存在を確認できない。自由の意識が存在しないところには、責任の観念も生まれてこない。こうして、国全体が無責任で無気力なまま、暴走していったというのが、丸山の日本ファシズムについての基本的な理解である。

こうした理解にたったうえで、どうしたら国民の中に自由な意識が芽生えてくるのを期待できるか、それが戦後の丸山の最大の関心事になった。自由な意識を持った責任ある主体が生まれてくれば、いわゆる日本ファシズムの再現を防ぐことができる。逆に言えば、そうした自由な個人が生まれてこない限り、日本はまた同じ過ちを犯さないとも限らない。

こうした自由な意識の主体としての個人のあり方をめぐる議論は、丸山の場合、西欧のケースを手本にして展開された。西欧社会は、長い時間をかけて自由な個人を作り上げた。それ故、日本も後進国として、西欧のケースを参考にすれば、自由な個人の創出と、自由な個人からなる民主的な社会を作れるかもしれない、と考えたわけだ。

だが、このような考え方は、日本の政治的伝統に一切考慮を払わないという点で、非常に片手落ちだという批判が起きたし、丸山もそういう批判に対して一定の考慮を払った。その考慮の結果として、日本の歴史の中に、進歩への原動力となりえた動きがなかったかどうかについての一連の研究が生まれた。「忠誠と反逆」と題する小論も、そうした研究のひとつだと捉えることができる。(丸山真男「忠誠と反逆」<ちくま学芸文庫>所収)

丸山は、日本ファシズムを許した民衆の無気力の最大の問題は、暴走する権力をチェックする意欲をもたなかったこと、言い換えれば抵抗の思想が希薄だったことにあると考えた。しかし、日本の民衆ははじめから抵抗の思想を持たなかったわけではない、と丸山は気づく。少なくとも、明治初期の自由民権運動の頃までは、民衆のなかにも政府の横暴に対する抵抗の姿勢が見られた。それが、明治国家の確立と共に、次第に抵抗の運動が抑圧され、最後には民衆の中から、政府への抵抗と言う思想が跡形もなく消えてしまった。なぜ、そうなってしまったのか。もしも民衆の中に抵抗の姿勢が生き続けていたら、あのように無責任なファシズム体制が成立するのを阻止できたのではないか。そう丸山は考えて、日本の歴史の中に、圧制への抵抗の動きを改めて探ってみることとした。この小論は、その探求の成果のようなものだと考えればよい。

政治的概念としての抵抗は、日本の歴史の中では「反逆」という言葉で理解されてきた。そして反逆の裏側には忠誠がある。この忠誠と反逆からなるセットこそ、抵抗の日本的なあり方だった、と丸山はみるわけだ。それ故、この忠誠と反逆のセットがどのようにして形成され、どのように機能し、またどのように消えていったかを見れば、日本における抵抗権思想の推移の輪郭が、おぼろげながらつかめるだろう、と丸山は考えたわけである。

忠誠と反逆というセットの思想が最初に形成されたのは、鎌倉武士の間においてだった、と丸山はいう。それは主人と家来との封建的な主従関係を律する基本的なエートスとなった。封建的な主従関係は、狭い人間的な繋がりを基盤とし、堅固な情緒的結合に支えられていたから、一方では命を懸けての忠誠を重んじるとともに、主人が道義に反した場合には、諌めたり反逆したりすることがありえた。しかし、いずれにしてもその関係は、非常に狭い範囲を出ないものであり、国家といった抽象的なものに対する忠誠心とか反逆とかいったことはまったく問題にならなかった。それにもかかわらず、主従関係における忠誠と反逆のセットは、武士たちの間に強い責任意識を培養していたのである。武士道の精神を懐かしんで書かれた「葉隠」に、「本来忠節も存ぜざる者は終に逆意これなく候」といっているとおりである。

忠誠と反逆とは、戦争をこととする武士の間に生まれたものであって、彼らの硬い情緒的結合を支えたのは、戦場において生死をともにするという団結心だったと思われる。だから徳川時代になって、戦争の可能性が事実上なくなり、武士たちが家産官僚化するにともなって、忠誠と反逆とのセットの精神も、薄らいだように見えたが、明治維新の混乱が、再び武士たちのエートスに火をつけ、忠誠と反逆をめぐる意識を尖鋭化させた。自由民権運動を支えたのは、こうして一時的に燃え上がった日本的抵抗権のエートスだったわけである。

しかし自由民権運動が下火になり、明治国家が磐石なものになってくるにつれて、従来封建的な主人にむけられていた忠誠心は、天皇への忠誠心に集約されていった。それにともなって、忠誠心には従来のような堅固な情緒的な性格はみられなくなり、抽象的な理念へと変化していく。また、忠誠の逆である反逆も、忠誠の減退していくのに伴って、減退していった。こうして、明治国家の完成と共に、日本国民からは抵抗権の思想が消滅していった。そう丸山は図式化するのである。


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