知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カフカの短編小説


カフカが生前発表したのは、「変身」のほかいくつかの短編小説だった。それら短編小説の日本語訳は、岩波文庫から、「カフカ短編集(池内紀編訳)」と「カフカ寓話集(同訳)」という形で二冊になって出ている。そのうち「カフカ短編集」について、ここでは取り上げたい。

これに収録されているのは、「掟の門」以下二十篇の短編小説だ。「掟の門」は「審判」のなかに繰り入れられている話だし、「火夫」は長編小説「アメリカ」の冒頭の章になっているものを、単独で短編小説として発表したものだ。

だいたいが、二ページから数ページほどの短い話で、筋らしいものを持たないものが多い。「万里の長城」にいたっては、一中国人の口を借りて、権力と民衆との間の親密な関係についての夢想のようなものを延々としゃべっているといった具合だ。カフカには、理屈好きの一面があるが、その理屈はだいだい権力をめぐって展開される。権力というものは、上から民衆を押さえつける外圧的な力ではなく、民衆が支えることで成り立つ内在的な現象なのだ、というのがカフカの理屈だ。

「判決」は、子に対する親の権力を描いたものだ。耄碌して子ども返りしたしたような父親を息子がかいがいしく介抱する。だが何故か父親は、そんな息子の態度が気に入らない。息子が自分を馬鹿にしていると思っているのだ。そこで怒った父親が息子に怒鳴りたてる。「わしは今、おまえに死を命じる、溺れ死ね」。そう命じられた息子は、家を飛び出して川のほうへ走ってゆき、橋の欄干から身を翻す。そして欄干につかまったまま、小声で言う。「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」。そして手を離す。「この瞬間、橋の上にとめどない無限の雑踏がはじまった」。

父親が息子に出す死の判決には、納得できる理屈はない。それを受け入れる息子にも、なぜ受け入れねばならぬのか、納得できる理由はない。息子は父親を愛しているから父親の判決を受け入れたのだと読めないこともないが、何故父親を愛していることが、父親の自分に対する死の判決を受け入れねばならないことにつながるのか、その理屈は明らかでない。

「流刑地にて」は、権力の執行者が、その権力を自分自身に対して執行するという倒錯した話だ。流刑地を通りがかったある旅行家が、死刑の執行現場に立ち会うことを了承する。その流刑地では毎日のように囚人への死刑が執行されている。その一つに立ち会うことになったのだ。その死刑というのが、非常に珍しい方法によるものだった。まぐわのような形をした巨大な機械を用いるのだ。機械の底に囚人を固定し、彼の身体にまぐわのような剣先を突き通すのだ。それも一挙に執行するのではなく、時間をかけて執行する。つまり、死刑は拷問を兼ねているのだ。当面の死刑囚は、自分にどのような運命が待っているのか知らない。だから機械の上に乗せられるとパニックに陥り、じたばたしているうちに、機械が壊れてしまう。死刑執行中に機械が壊れて、死刑の執行が失敗すると、その囚人は死刑から解放されるという取り決めになっているらしく、囚人は解放される。だが死刑の執行官は、その責任を取らねばならぬ。というわけで彼は、壊れた機械を修理した上で、自分が機械の上に横たわり、自分自身に対してまぐわの剣先を突き立てるのである。

「父の気がかり」に出てくるオドラデクは、「ひらべたい星型の糸巻きのようなやつだ」が、これがつねに人間につきまとっている。いなくなったと思っても、かならず戻ってきてつきまとう。ちび助なので、子どもに言うように話しけかてしまう。
  「なんて名前かね」  
  「オドラデク」
  「どこに住んでいるの」
  「わからない」
「そう言うと、オドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。落葉がかさこそ鳴るような笑い声だ」

「死ぬものはみな、生きているあいだに目的をもち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす」のだが、オドラデクはそうではない。「自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする」。こうカフカはいうことで、オドラデクが権力を象徴するものだといっているようなのだ。

不思議な働きをするおもちゃは、「中年のひとり者ブルームフェルト」にも出てくる。ある日突然、二個のボールが中年のひとり者ブルームフェルトの部屋に侵入してきて、かわるがわる飛び跳ねるので、ブルームフェルトは迷惑で仕方がない。摑まえようとするがなかなか掴まらない。そのボールたちには、常にブルームフェルトの背後にまわろうとする傾向があった。まるでブルームフェルトを背後から監視するのが自分たちの仕事だといわんばかりである。ブルームフェルトはその習性を逆手にとって、二個のボールを衣装戸棚のなかに閉じ込めてしまう。その後、ブルームフェルトは、その二個のボールを掃除夫の息子に押し付けようとするが、その息子は頭が弱くてブルームフェルトの言うことを理解できない。そこで別の女の子二人が、自分たちが息子にかわってボールをとってこようと申し出る。ブルームフェルトは、この女の子たちを信用できないのだが、背に腹は変えられない。女の子たちにボールを託す決心をする。「彼女たちは何だってわかっているのだ。そして今度はブルームフェルトが少年の物わかりの悪さに感染したらしく、どうして少女たちはこんなにもすばやく何もかも理解しているのか呑み込めない」のだ。

そんなブルームフェルトは、下着の製造工場に勤めている。そこでブルームフェルトは、周囲のものから軽んじられている。「上の者が軽んじると、ほかの連中は輪をかけてしたがるものだ」からだ。つまり、ブルームフェルトは、上の者に軽んじられているために、自分の部下を含め他の者からも軽んじられているというわけなのだ。

以上簡単な要約で見てきたが、これらの話に共通しているのは、権力が人を絡めとるプロセスだ。一見権力とは無関係に見えるボールの逸話についても、よくよく考えれば、ボールが人の生活を絡みとろうとする点では、権力の意思を思わせる。少女たちのものわかりのよさは、権力の効率性を物語っているのだろう。

この短編集には、権力と直接関係のない話も収められている。たとえば「狩人グラフス」の話。これは棺桶に入れられながらも、三途の川を渡りそこなったために、棺桶に入ったままこの世を放浪するはめになった男の話である。




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