知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カフカの「城」を読む


「城」は普通には、未完成の作品と受け止められている。形式的にはそのように見える。主人公Kと旅館紳士荘のおかみとの会話の途中で中断してしまうし、話の流れからしても、とても完結しているようには見えない。しかしよくよく考えれば、この奇妙な話にまともな終り方があるだろうか。そもそもこの小説は、なにかまとまりのある筋書きからできているわけではない。たしかに、主人公には個人的な目的があり、とりあえずはその目的をめぐって小説が展開してゆくのであるが、そのうちに主人公自身が自分の目的を見失ってしまうようなところがある。主人公が、自分の行為について明確なイメージを持っていなければ、小説を読んでいる者にはなおさら、なにがそこで問題となっているのか見えてこない。ところが小説というものは、昔から多かれ少なかれ、問題なしでは進まなかったものなのだ。

この小説にも、問題らしいものがないわけではない。それを単純化して言うと、官僚制社会の非人間的なシステムということになろう。非人間的という言葉から連想されるように、この小説が描いている官僚制社会は、ある種のディストピアである。ディストピアについては、カフカは「審判」のなかでも取り上げていたので、これもまた「審判」と同じような問題を取り上げたのだと考えることができる。

「審判」にしろ、この「城」にしろ、そこに描かれているディストピアは、世界がそれまでに体験したことのないものだった。19世紀までの世界は、基本的には目に見える人間関係を中心に動いていた。どんなことをするにしても、人間は自分の相手の顔を見ながら行動したものであり、社会の中で自分がどのような位置づけをされており、自分が従うべき社会的な規範がどのようなものか、わかっていた。したがって、どんな人間にとっても、自分の行動について、予測可能性を期待できた。どんな行動をすれば、どんな結果が返ってくるか、全く完全にというわけではないが、かなり高い確率で予測できた。そういう社会に生きている人間は、基本的に、世界と自分との関係を調和したものとして感じることができた。

ところが官僚制はそうした一切のことをドラスティックに変えてしまう。官僚制の本質的な特徴は、組織の中に個人が埋没し、その結果個人が価値を持たなくなることだ。個人が価値を持たない社会であるから、人間同士の関係も、個人を基本としたものではなくなり、組織の都合によって自動的に動いてゆく機械的な関係に変化する。システムといえばまだ人間的な雰囲気がただようが、ここには人間的な雰囲気はないので、そこでの人間関係のあり方は、システムと言うよりメカニズムといったほうが相応しい。官僚制社会というのは、そうしたメカニズムが貫徹する社会なのであり、カフカが「城」で描いたのも、そうした社会のあり方だと言える。

「審判」を論じたところでも指摘したが、カフカが生きた時代は、官僚制がようやく成立しようとする段階だった。そんなこともあって、今日なら指摘できるような官僚制の特徴が、まだ典型的には現れていなかった。そうではあるが、官僚制に特徴的な、人間関係の匿名性とか、個人に対する組織の優位とか、そのことに伴う違和感とかは、現実化しつつあった。カフカは、一人の敏感な人間として、そうした違和感を敏感に感じ取り、それを小説の中に盛り込んだのだと思う。

この小説が官僚制社会の非人間的なメカニズムを描いているということは、基本プロットをちょっと見ただけで気づくことである。この小説の基本プロットは、「城」から採用された測量技師が、その「城」に赴いたところが、色々な事情で仕事に取り掛かることができないまま、いたずらに時間が経過するというものだ。その結果どういうことになったか、そこまでいかないうちに小説は中断してしまうのだが、もし中断しなかったとしても、同じことがらが延々と繰り返されるだけで、根本的な解決はきっと図られないだろうと、読者はすでに納得してしまっている、そんなふうにこの小説は設計されているのである。

測量技師のKが仕事に取り掛かれないのは、自分の採用手続きに瑕疵があったかららしい。その瑕疵がどのようなものであったか、それをKは、城の官房長とかいう肩書のクラムに指示されて会った村長から聞かされた。それによれば、たしかに数年前、城が測量技師を採用する決定をしたことは事実だが、その後それに反対する者が出たりして、その決定が保留されてしまった。だから今現在、測量技師をすぐさま採用できる状態ではない。今後採用できるかどうかもわからない。しかしそれではあなたに対して気の毒だから、測量技師に代る臨時の仕事を斡旋してやろうと言って、Kは学校の小使いの仕事をあてがわれるのである。

この逸話で示されているのは、官僚制特有の無責任である。採用の決定が一度はなされ、それに基づいてKに採用通知がなされたのは事実だが、その後その採用が保留となった。ついては、採用という行為そのものについて、責任を以てそれを進めようというものもいないし、その採用に反対したものも、それを責任を以て確定するつもりがない。その結果、採用でもなければ、採用の取り消しでもなく、採用の保留という中途半端な状況が続いている。しかもこの中途半端な状態は今後も解消される見込みはないだろう。何故なら責任をもってそれを解消しようとする人間、つまり役人がいないからだ、というわけである。

この小説は、そうした役人たちに立ち向かう測量技師Kの無益な戦いを描いたものなのだ。そうした役人たちは、一体なにものなのだろう。小説の中では、彼らは普段城に住んでいて、たまに麓の村に出張してきては、村人たちからの請願を聞いたりするが、彼らの仕事ぶりにどんな意味があるかといえば、ほとんど何の意味もないのである。役人らしくふるまう、それが役人の唯一の仕事の意味なのだ。

一方、村の住人達は、役人たちを崇拝している。その根拠は、役人たちが自分たちを支配しているということを、村人が認めていることにある。実際小説の中での村人たちは、役人に対して卑屈な態度で接しているのだ。役人は村人たちにおだてられるのを当然のこととして受け止める一方、村人のために働いているという自覚は毫もない。役人がいるのは、役人組織を維持するためであって、その役人組織にしても、その存在意義などはまったく意味を持たない。役人組織というものは、存在すること自体に意義がある、というわけである。

しかしKの命運はそんな役人にかかっている。すくなくともKはそう思っている。そこでなんとかして、自分のことについて影響力を持った役人に近づき、自分の陥っている状況を打破したいと思うのだが、そんなKにまともに答えてくれる役人は、Kに最初の指示を与えたクラムを含めて一人もいない。そこでKは、見込みのない目的を追求して、延々と無益な努力をする羽目に陥るのである。だからこの小説には、決して終末は訪れない。見込みのない目的を、Kは死ぬまで追い求め続けざるを得ないだろうからである。もっとも、「審判」がそうであったように、主人公の死が物語に結末らしいものをもたらすことはありうる。




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