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六号室:チェーホフを読む


小生は過日ロシアを旅して、ロシア人について聊か思うところがあった。なかでも最も印象的だったのは、ロシア人には二種類の人間がいるということだった。非常に人が良くて、誰に対してもあけっぴろげだが、それが仇になって人に騙されやすいタイプの人間が多くいる一方で、そうした人間に付け込んでけしからぬ利得を得ようとする雲助のような小悪党がいる。ロシア人にはこの二種類の人間のほかにもまだ別の人間がいるのかもしれぬが、旅行者の小生にはそこまではわからなかった。というのも小生が旅行中身近に接した人間は、一部の狡猾な雲助どもと、大部分の善良で人の良さような人たちばかりだったのだ。

ロシア人についての小生のこうした見方は、チェーホフの小説「六号室」を読んで更に裏付けられた。この小説は、小生の分類したとおりの典型的な人物が登場して、お人よしの人間が雲助のように狡猾な人間に迫害される話なのである。お人よしの人間が迫害されるのは、かれに弱みがあるからで、弱みがある人間は必然的に迫害されるというのが、どうもロシアの現実のようなのである。というのもロシアには、お人よしと雲助とこの二つのパターンの人間しか存在しないとすれば、プラスがマイナスを求めるように、迫害者が被迫害者を求めるという関係が成立するからだ。

この小説の主人公アンドレイ・エヒミチは、さる村の病院の院長として、いっぱしの人間としての尊敬を集めていた。その病院の離れで六号室と呼ばれる部分は精神病院になっていて、そこに数名の狂人たちが収容されていた。エヒミチはその患者のひとりイヴァン・デミトリチと親しくなる。それが彼の弱みとなるのである。かれが狂人と親しくなれるということは、彼自身が狂人になったあかしだ。そう決めつけられてかれは狂人扱いされ、あまつさえ自分が院長をしていた病院の狂人病棟にぶち込まれたばかりか、いくばくもたたないうちに、憤懣のうちに死んでしまうのである。

かれが本当に狂人になったのかどうか。小説は深くは詮索しない。ただかれが、まわりの人々から狂人と思われるようになっただけで充分なのだ。そういう了解が社会的に成立すると、それにつけこむ人間が前に出て来る。この小説の場合には二人の人間が示し合わせながらエヒミチを狂人病棟に隔離する。かれらにはそれについての利害関係があるのだ。副院長格の若い医師ドクトル・ハバトフはエヒミチに代わって院長の座に就くことを狙っているのだし、郵便局長のミハイル・アウエリヤヌイチは、エヒミチに五百ルーブリの借金があって、それが帳消しになることを願っていたに違いないのだ。

こうして自分の脇が甘いゆえに他人に弱みを握られたエヒミチは、悪党たちによって散々な目にあわされるというわけなのである。こういう話を聞かされると、ロシア人と言うのは、気の許せない人間たちが闊歩しているとの印象を更に強めさせられるのである。この小説を読んだ読者は、エヒミチの運命に同情するだろうか、それとも雲助どもの跳梁ぶりに眉を顰めるだろうか。ひとつだけ言えることは、雲助は騙されやすい人間がいることをその存在の条件としているということだ。だからこの小説の中での出来事を通じて、ロシアには騙されやすい人間とそれにつけこむ小悪党とが、もたれあいの関係にあるということを我々読者は納得させられるのである。




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