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イオーヌィチ:チェーホフ


チューホフの短編小説「イオーヌィチ」は、ロシアのプチブルを描いたものである。どこの国でもそうだが、プチブルというのは独特の心情をもっている。地主や大ブルジョワと違って生活の基盤がしっかりしているわけではなく、ついうっかりすると下層階級に転落しないとも限らない。したがって、プチブルとしての体面を保つためにはそれなりの努力が必要だ。できうれば、上流階級になるべく近づきたい。そのためには始終努力が必要である。また、自分のメンツを保つために、そこそこの贅沢も許されるが、なんといっても肝心なことは、金をためることである。金がたまれば人さまからいっぱしの人物と認められ、美しい女を女房にすることもできる。そんなささやかなプチブルの欲望を、この小説は心憎いタッチで描いている。

主人公はスタールツェフという医師で、その名をドミトリー・イオーヌィチという。この男は周囲の人間たちから親しみを込めてイオーヌィチと呼ばれているが、作者はかれを一貫してスタールツェフと読んでいる。小説はそのスタールツェフのプチブル的な心情を描き出すわけだが、物語の骨格は、彼の恋である。彼は、年齢こそ触れられていないが、前後の文脈からして、四十は優に超えた中年男に違いない。その中年男が、妙齢の女性に恋をする。この女性は、これもまた前後の文脈からして、十八か十九の娘と思われる。つまり父子ほど年の開いた女性に思いを寄せるわけだ。

日本人には、現代ではともかく、明治の頃までは、父子ほど年の離れたカップルは珍しかったらしいが、ロシアでは普通のことだったようだ。だからチェーホフも、スタールシェフの若い女性に対する恋を、そう違和感なく描いているわけだ。その描き方は、まるで若い男と若い女のやりとりのように映る。というのも、女のほうでは、スタールツェフからのプロポーズをちゃかして受け流しながら、それをまんざらでもない様子に考え、かえって自分のほうからも求愛めいたことをするようになるからだ。

そうなるには、それなりの行きがかりがあった。エカテリーナ・イワーノヴナという名のこの若い女性は、音楽家としての自分の才能に惚れ込んでいて、本格的なレッスンを受けて、華々しいデビューを飾りたいと願っている。そこで、母親の反対とイオーヌイチの求愛をしりぞけて、都会の音楽学校に入るのだが、四年たって戻ってくる。自分に音楽の才能がないことを思い知って。

こうなると、エカテリーナには、輝かしい未来は望めない。そこで彼女は、イオーヌイチの妻に納まることを考えるようになるのだが、その時にはすでにスタールツェフの恋心はしぼんでしまっていた。かれは、いまやでっぷりと肥ってしまい、とても女にもてるような容姿ではないのだが、そんな自分のことを脇へ置いて、エカテリーナがもはや自分にふさわしい女ではないと思うのである。

なぜ、そんなふうに思うようになったか。小説は、くわしくは書いていない。それは読者が行間から読みとってもらいということなのだろう。そこで筆者が筆者なりに読み取ったのは、スタールツェフの打算である。その打算は二つの要素からなる。ひとつは面子であり、一つは金である。面子という点では、かれはエカテリーナに、彼女がまだ小娘の時に、手痛いいたずらをされた。その時には、恋しい思いからいたずらを軽く受け流したが、その女が、何年かたって再び自分の前に現われて見ると、向こうのほうからモーションを掛けて来る。その動機がスタールツェフには透けて見える。つまり、彼女としては、値打ちの下がった自分には、スタールツェフでもお似合いではないかと、半分あきらめの境地からそんなことを言い出したのだろう。もしそうだとしたら、自分は甘く見くびられていることになる。そういう思いが彼の自尊心を傷つけたというふうに伝わってくるのだ。

金については、かれはいまや郡医としての仕事のほかに、都会のお得意もたくさんもつようになり、医師としての収入が増えて来た。その収入を増やして、いっぱしの人間たちの仲間入りするのが、いまのかれの目標なので、昔の恋をいつまでも引きずっているわけにはいかない。第一、いまや金を持つ身になった自分にとって、エカテリーナが特別の価値をもっているというわけでもない。かつてなら、エカテリーナの持参金が魅力的にうつったが、いまではそれくらいの持参金で目のくらむ自分ではない。

こうした事情が働いて、スタールツェフはエカテリーナの求愛をはねつけたのではないか。いずれにしても、恋も現実的な打算の一環として行われるというのが、この小説から読み取れることであり、それがロシアのプチブルたちの習性なのだと、筆者などは納得させられた次第なのである。

それにしても、スタールツェフの心変わりを描いたところは、かなりどぎつい表現になっている。かれは、いまやオーラを失ったかつての恋人を見て、自分がなぜこんな女に夢中になったのか、その軽率さを反省し、こんな女を女房にしなかったことを心から喜ぶのである。




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