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可愛い女:チェーホフ


チェーホフが「可愛い女」で描いて見せたのは、ロシア人女性の典型的なタイプということなのだろうか。日頃ロシアと接する機会に乏しい我々普通の日本人にとっては、ロシア理解のカギになるのはロシア文学ということになろうが、そのロシア文学に描かれたロシア人女性というのは、たとえば「アンナ・カレーニナ」におけるアンナのような、自立心の強い女というイメージがある一方、ドストエフスキーの小説、たとえば「罪と罰」に登場する敬虔で、自己主張をしない女たちのイメージもある。どちらがより正確に典型的なロシア人女性に近いのか、筆者などにはわからないが、チェーホフのこの小説を読むと、どうもロシア人女性に多いタイプは、敬虔で自己主張をしない女性なのではないかと、思われたりもする。

こんな曖昧な言い方をするのは、筆者のロシア人理解が十分ではないからだ。先般初めてロシアを旅行してみて、ロシア人に直接接する機会があったが、そこから得られた印象は、男女でかなり違っていた。男についていえば、中には善良な人間もいたが、狡猾な印象を与える人間が多かった。かれらは、とりわけ筆者らのような観光客に対して、あわよくば金品をだまし取ってやろうという野心を隠さなかったし、その野心を公然と発揮するものもいた。それに対して女性の方は、おおむね善良な印象を得た。彼女らは、筆者のような東洋の片隅から来た旅行者にも暖かい態度で接してくれたし、時には、こちらから望まないままに、なにくれと手を差し伸べてもくれた。その表情は善良そのもので、私はあなたとともにあります、あなたのために私のできる限りのことを致しましょうといった、いわば奉仕の精神のようなものを感じさせた。

こういう体験をしたあとだけに、この小説に描かれた「可愛い女」を、筆者は、それだけがロシア人女性の全体像を示しているとはいえないまでも、多くのロシア人女性の姿を彷彿とさせるものなのではないかと、思うに至ったのである。

この小説の女主人公オリガ・セミョーノヴナは、自分というものを表に出さない女性である。彼女は、自分の心から愛している男に心身ともに一体化して、男の考え方は無論、話し方まで男のそれを模倣する。彼女の話しているところはまるで、オウムやインコが主人の言葉を繰り返しているように聞こえるのだ。そんな彼女を人々は「可愛い女」と呼ぶ。それは、彼女が自己主張をせずに、何事も自分の良人や、その良人が体現している世間の常識に従っているからで、その従順なところが、ロシア人には好ましい女性像と映ったからにほかならない。

それゆえ彼女は、自分を導いてくれる人、それは良人ということになるが、その人が存在する限りは、その人の光を受けるかたちで、あたかも惑星が恒星の光を受けて輝くように、一人前の人間として、輝いていられる。その良人を彼女は二度にわたって失う。良人を失った彼女は、どのようにしてこの世で生きて行けばよいのかわからずに、すっかり自信をなくしてしまうのだ。自信をなくした彼女は、まるででくの坊のような存在になる。彼女には、とにかく自分を導いてくれるものが必要なのだ。彼女一人では、彼女はまともに生きていけない。

そんなわけだから、年をとって新しい良人を得られなくなると、少年を自分の導き手として、その少年に一体化した生き方を選ぶようになる。彼女にとっては、たとえ少年であっても、いないよりはましなのであり、相手が少年のことだから多少の不都合はあるにしても、少年に一体化することで、この世に生きていくうえでの足掛かりを得られるように思えるのだ。そんな彼女を世間は、非難したりバカにしたりはしない。少年の口癖を真似て人々に語り掛ける彼女を世間はまた「可愛い女」と呼ぶのだ。

こういう自己主張をせずに自分を自分が帰依する存在と一体化するような女性が、ロシアの女のあるべき姿であるとチェーホフは考えていたのであろうか。この女性を描くチェーホフの筆致は多分に同情を感じさせるものであるし、そこには批判やあてこすりの雰囲気は感じられないので、すくなくともチェーホフが彼女に好意的であることは推測できる。

チェーホフが実際にそう考えていたとして、そういうタイプの女性がロシア人女性の望ましい姿として、一般に受け取られているかどうかは、また別の問題である。そこで実際のところはどうなのか。そこが問題になるが、残念なことに、その問題に答えてくれるような情報を筆者は持たないし、また、そんな情報が整理されているかどうかもあやしいところなので、こういう問題の立て方自体を筆者がすることに、それこそ問題があるかもしれない。

そんな理屈回しを超えて、この小説にはチャーミングなところがある。そのチャーミングなところが筆者に、ロシア人女性の典型なるものについて、とりとめのない考えを巡らせる原因となったようである。




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