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桜の園:チェーホフの戯曲


戯曲「桜の園」は、チェーホフの遺作となったものである。遺作といっても、チェーホフは44歳の若さで死んでいるから、本人にとっては、生涯の総決算という意識はなかったかもしれない。だが、それまでの自分の文業にある程度の区切りをつけるくらいの気持は働いていただろう。それは、彼がこの作品において、それまで彼がこだわり続けてきたこと、つまり没落しつつある地主階級のメンタリティを描き出そうとしているところから推測される。

短編小説でもそうだったが、特に戯曲においては一層強い程度で、チョーホフは地主階級のメンタリティをテーマとして取り上げてきた。ロシアの地主階級の没落は、1861年の農奴解放令の発布がきっかけで始まったとされるが、それ以上にロシア経済の資本主義化が拍車をかけた。チョーホフは、ロシアの近代化のプロセスにはあまり触れず、もっぱら没落する地主のほうに注力して描いているので、彼らが自分自身の無能から没落したのだと思わせがちだが、実際に彼らの没落を速めたのは、資本主義化を中心とした社会の近代化だった。農奴の使役を前提としたロシアの地主制度は、こうした近代化とはそりが合わなかったのである。

「かもめ」や「ワーニャ伯父さん」では、地主階級に属する人々の人間としての無力さがテーマになっていた。その無力さとかもろさは、地主階級としての出自に根差している、というふうに思わせるところがある。彼らは、地主としての既得権益に寄り掛かって生きてきたので、自分の能力で世の中を渡っている人々に比較して、自立度が弱い。そこへもってきて、地主階級全体の没落傾向が顕著になって来て、地主たちが社会的に無益な存在になりつつあると、彼らの人間としての無力さはいっそう際立ってくる。この戯曲「桜の園」に描かれた人々は、そうした無力な人々なのである。

その無力さは、女主人公で地主のラネーフスカヤにもっともよく体現されている。彼女は先祖代々受け継いできた地所や屋敷を、手放さねばならないまでに追いつめられている。舞台の上では、その理由は彼女の浪費癖に由来するというふうになっているが、本当の原因はもっと別のところにある。彼女がつつましやかな人だったにしても、同じような運命を避けられたかどうかはあやしいものなのだ。伝統的な地主は没落する運命にあり、その理由は上述したような社会の変化にある。

舞台の上では、この社会の変化を体現する人物も出て来る。商人のロパーヒンだ。彼の父もまた祖父も桜の園で農奴をしていた。そのロパーヒンにチェーホフは、私の父や祖父はあなたのお父さんやお爺さんの奴隷でしたとラネーフカヤに向かって言わせている。昔なら、ラネーフスカヤに面と向かって口をきくなどできなかっただろう。それがいまでは、ラネーフスカヤに向かって一人前の口をきくばかりか、没落したラネーフスカヤの財産を買い取るのである。これは、究極的な下克上というべき事態で、つい最近までは考えられなかったことだ。その考えられなかったことが、いまでは当たり前のように起きる。そこに時代の変化を人々は感じるのだが、それはラネーフスカヤと同じような境遇にあるものにとっては、恐ろしいことに違いない。その恐ろしいことが当たり前になっているところに、時代の恐ろしさが感じられる。この戯曲は、どうも、そのような感銘を盛り込んでいるように映る。

チョーホフ自身は、そうした没落しつつあるものに、どう向き合っていたか。彼ら没落するものに同情したのか、あるいは自業自得だとして突き放していたのか。これは、戯曲を読んだり、舞台を見ただけでは、なかなかわからない。ヒントは、ラネーフスカヤとロパーヒンとの間柄の描き方だ。ロパーヒンは、昔からの誼もあって、ラネーフスカヤの財産の有効活用法をアドバイスしたりする。それは一応彼の好意から出たということになっている。このアドバイスにラネーフスカヤは耳を課そうとしない。その結果として、地所や屋敷が競売にかけられる事態に陥る。それに対してロパーヒンは、自分でその競売を落とす。競売で落とすのだから、持ち主に対する遠慮はいらない、というわけである。そこに資本の論理が働いていることを感じさせるのだが、その論理に乗って浮かんでいられるのがロパーヒンである一方、その論理から排除されて沈んでいくのがラネーフスカヤということになる。

一方、ラネーフスカヤは、自分の養女ワーリャをロパーヒンに嫁がせたいと思っている。ロパーヒンの生活力と如才のなさに惚れこんだのだ。ワーリャもまたロパーヒンを愛している。しかしロパーヒンは、その話をうれしくは思わないようである。彼には女の愛よりも、金儲けのほうが大事なのだ。

こんなわけで、ラネーフスカヤに体現される旧時代の人間は、時代の流れから取り残されるばかりか、まともな人間として求めてしかるべき愛からも疎外される。踏んだり蹴ったりなのである。その踏んだり蹴ったりの彼らの境遇を、この戯曲は、あまり感傷的にならずに、淡々と描いている。だから、チェーホフが、彼ら没落するものにどのような心情を寄せていたかは、あまり重要なことではないかもしれない。彼はただ、自分の目の前で進行しつつある、社会の変動というものを、一人の目撃者として記録して置きたかった、ということなのかもしれない。そう割り切れば、この戯曲は、ロシア史の一端を垣間見せてくれるものとして、それなりの見方ができるのではないか。

ともあれ、この戯曲には、ロパーヒンを別として、無気力な人間ばかりが出てくる。その無気力ぶりは、没落しつつある地主階級に限らず、ロシア人全般について言えることのようであるが、この戯曲では、そこまで踏み込んで指摘されてはいない。だが、これでは彼らが没落するのは自業自得だと思わせるほど、この戯曲に出て来る人間たちは無気力なのである。




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