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魅せられたドゥルシネーア:アウエルバッハのドン・キホーテ論



アウエルバッハが主著「ミメーシス」を刊行した時、セルバンテスを論じた章はなかった。スペイン語版が出されるに及んで「魅せられたドゥルシネーア」と題するセルバンテス論を書き、それを第14章として挿入したのである。

パンタグリュエルやハムレットとならんで、世界文学史上の大傑作であり、しかもルネサンスの偉大な文學である「ドン・キホーテ」を、初版から除外したことには、何か理由があるのだろうか。

この小論を読んだ限りでは、アウエルバッハはどうも、「ドン・キホーテ」という作品を持て余しているように感じられる。一方では偉大な文學だと認めていながら、他方では無批判的、無問題的、つまり無内容だという評価を下しているからである。

アウエルバッハがドン・キホーテを無内容だと感じたのは、「ミメーシス」という著作の性質とも関わりがある。「ミメーシス」は副題に「ヨーロッパ文学における現実描写」とあるとおり、ヨーロッパ文学における人間と現実あるいは社会とのかかわりをテーマにしたものだが、「ドン・キホーテ」という人物像には、現実とのかかわりを問題として意識させるような、いかなる問題性もない、つまり無問題性がドン・キホーテの最大の特徴であってみれば、この「ミメーシス」という著作の中で、それなりの場所を見つけるのが、少なくとも当初においては、難しかったのではないか。そんな風に思われるところだ。

アウエルバッハがこの小論を描いた1949年には、まだまだドイツ・ロマン派のドン・キホーテ観が支配的だった。ドン・キホーテは偉大な理想主義者である。彼の行動は一見して、不条理で、突飛で、グロテスクではあるが、それでもやはり理想主義的で、絶対的かつ英雄的である。われわれはそこから、喜劇性とともに悲劇性をも受け取るべきである。こんな見方がまだ生きていたわけだ。

こうした見方に対して、アウエルバッハは強く反発している。ドン・キホーテのなかには確かに、理想主義的で英雄的な部分がないわけではない。しかしそれはドン・キホーテが狂気に陥っているときのみにあらわれるものだ。面倒なのは、ドン・キホーテには、狂気に陥っているときばかりではなく、正気の時もあって、正気の時のドン・キホーテは何のとりえもない人物に過ぎないということだ。彼の英雄性は狂気の賜物なのだ。ところで、真の理想主義が狂気の中でしか現れないとしたら、誰もそれを悲劇的だなどとはいわないだろう。ただの気違い騒ぎ、つまりドタバタ喜劇に過ぎないといわねばならない。

セルバンテスはドン・キホーテを英雄として描いた訳ではない、とアウエルバッハは主張する。ドン・キホーテとは、時代錯誤で、愚かで、狂気に陥った老人である。その老人が、自分のまわりのあらゆる人々を狂気のドタバタ騒ぎの共演者にしていく。ドン・キホーテのやることは、「完全に無意味で現実の世界とは全く相いれないものなので、その中に滑稽な混乱をひきおこすのが関の山」(篠田一士、川村二郎訳)なのである。

それは別におかしなことでもなんでもない、とアウエルバッハはいう。セルバンテスにとっては、すぐれた小説とは「高級な楽しみ」、「しかるべき娯楽」以外の何物でもないのである。事実、セルバンテスの同時代人が、この小説に夢中になったのは、それが「しかるべき娯楽」を提供してくれたせいであって、何も深遠な主義思想とか、高邁な理想とかが問題となったわけではないのだ。

前後編を通じて、悲劇的な葛藤や、それに伴う重大な結果、また風刺的な、時代批評的な要素すらも非常に弱い。「ヨーロッパ的な問題と悲劇が形成された時代の傑作の一つでありながら、セルバンテスのこの書物の中には、問題性も悲劇性もほとんどみられないのである。ドン・キホーテの狂気は・・・この種のものを何ひとつ暴きださない。しっかりと根を下ろした現実に衝突して狂気が滑稽になるドラマ、それがこの書物全体の内容である」

だからといって、この書物がつまらぬものだとはいわない、とアウエルバッハは言い訳もする。つまらぬどころか、ヨーロッパの文学史上の偉大な作品である。だがその偉大性の根拠は、ドイツ・ロマン派がいうような理想主義とか悲劇性とかにあるのではない。

この書物が偉大なのは、ドン・キホーテの狂気を通して、当時の世界が生き生きと描かれている、その精彩さにある。「日常の現実をこれほど広くあまねく、多層的に、それでいて無批判的に、そして無問題的に描こうとしたものはヨーロッパにその後ない。やろうと思ったところで、いつどこでそんなことが可能でありえたか、筆者には想像することもできない」

こうしてみれば、ドン・キホーテとはヨーロッパ文学史上に現れた特異な傑作ということになる。特異だというのは、他に真似手がでないほどに、ユニークだということだ。そのユニークさのおかげで、ヨーロッパ文学史に相応しい位置づけを見出すのが難しくなることもある。当たり一篇の批評を寄せ付けないようなスケールの大きさを持っている、ということだろうか。アウエルバッハが「ミメーシス」の初版からドン・キホーテ論を除外したのには、こういう背景があったものと思われる。





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