知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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フォークナーの「サンクチュアリ」


「響きと怒り」は、小説の様式を大きく変化させた20世紀最大規模の実験的な試みとして、構成や語り口に大きな関心が払われてきたが、小説の本体ともいえるストーリー展開にはそれほど関心が向かなかった。フォークナー自身も、ストーリーよりスタイルのほうに拘っているといった様子で、この小説を通じて何を訴えたかったのか、かならずしも明確なイメージを持っていなかったように見えるところもある。それに比べると、「サンクチュアリ」のほうは、物語としても面白く、またそのメッセージ性も強烈だ。それは一言で言えば、アメリカ社会批判ということになる。

これは、禁酒法時代のアメリカ社会の、欺瞞的で狂乱的なあり方を乾いたタッチで痛烈に批判した小説である。小説であるから、批判そのものは理屈ばってはいない。言葉で直接批判しているわけではない。だから鈍感な読者はそこに、批判的なメッセージを読み取ることなく、これを単なるアミューズメント小説として読み飛ばすこともあるだろう。アミューズメントというのは、この小説がジゴロを中心にしたハードボイルド・タッチの犯罪小説になっているからだ。だが、多少の注意深さを持った読者なら、この小説が壮大なアメリカ社会批判を含んでいることを難なく感じ取るだろう。

禁酒法の時代というのは、アメリカにとって独特の、しかしアメリカでしかあり得ないような、不思議な時代だった。禁酒法そのものがアナクロニックで狂信的で欺瞞的であるのに加え、それを表向きは固執しながら裏では骨抜きにするアメリカ人の表裏ある生き方、そんな生き方は破綻するに決まっているし、実際禁酒法は短い期間の後廃止されるのであるが、そういう欺瞞的で狂信的な空気の充満しているなかで、アメリカ人たちは、正気を装って暮らしていた。それが、覚めた精神の人にとってはいかに倒錯的に見えたか、この小説はそうした倒錯的なアメリカ社会を徹底的に批判したものなのである。

題名の「サンクチュアリ」とは、闇酒密売人たちのアジトをさしている。そのアジトには、いかがわしい人間たちがたむろしており、また間抜けな連中が酒を求めて吸い寄せられてくる。そうした人間たちのなかで、ポパイと言う名のいかがわしい男が、仲間を殺した上で一人の女を拉致して去る。この女は少し頭の弱い未成年者で、他の男と一緒にアジトにまぎれ込んできて、そのまま逃げられなくなったところをポパイに拉致され、メンフィスの売春宿に監禁されて、性的な暴行を受け続ける。そこへ、やはりこのアジトのかつての客でもあった弁護士が介入してきて、ポパイによる殺人事件の捜査に乗り出す。ポパイの犯した殺人の罪を、アジト仲間の他の男がかぶってしまい、その嫌疑を晴らそうとして彼は介入したのだった。

ところが、ポパイの犯罪は解明されず、罪を犯していない男が有罪の判決を受け、それのみか町の与太者たちの手にかかってリンチされる。生きたまま火をつけられて焼き殺されてしまうのだ。きわめて陰惨なこうした事情をフォークナーは乾いたタッチで描いてゆく。本当の犯罪者が罪を逃れ、関係ないものが代わって処刑される、こんなことはアメリカではよくあることなのだ、といったような覚めた視線がその筆先からは伝わってくる。自分の関係ない罪で処刑されるのはポパイも同じことで、彼は全く無関係な警官殺しの容疑で裁判にかけられ、有罪になった上で、判決の下ったその日のうちに吊るされてしまうのだ。これもまた冤罪なのだが、しかしアメリカの司法制度には冤罪は付き物なのだから、いまさらそれをどうのこうの言っても始まらない、といった空気が小説から伝わってくるし、小説の登場人物たちもそうした空気に馴染んであきらめきっているふうなのだ。アメリカなんてしょせんこんなものさ。だいたい誰も信じていない禁酒の効用のために、国中が欺瞞的な態度をとっている社会で、まともなことを考えようということ自体がナンセンスだよ、そんな諦念のようなものが強烈な余韻を持って迫ってくるのである。

こんなわけでこの小説を読むと、アメリカという国がいかに異常な成り立ちなのか、よく見えてくる。アメリカはいうまでもなく人為的に作られた国だから、人々は情念よりも理屈に従って生きている。ところが情念を伴わない理屈など、女のいない男だけの社会のようなもので、人間本来の自然なあり方とはかけ離れた異常な社会と言わねばならない。アメリカはその深部においてこうした異常さを抱え続けてきたし、フォークナーの生きた時代、それは禁酒法の時代とそれに続く時代だったわけだが、その時代にはそうした異常さが最も異様な形で爆発したものだった。その異常さは現代、つまり21世紀になっても解消されていないといってよい。いわゆるトランプ現象は、その一つの現われといえる。

小説のスタイルという面では、この小説も「響きと怒り」のスタイルの延長といえる。「響きと怒り」では、三人の別々の語り手にそれぞれ勝手なことをしゃべらせて、最後にメタ語り手というべきものがそれらをつなぎ合わせてつじつまをあわせるというようになっていたが、この小説では、多数の人物のそれぞれ独立した行動を、縫い目を気にすることなく並べてゆくと言う方法を取っている。従って「響きと怒り」では三つあった焦点がこの小説ではもっと多くの焦点に分解しているとともに、それらを交互につなぐのは、メタ語り手のような第三者ではなく、多数の人物の行動がお互いに接触しあうところからおのずと浮かび上がってくるようになっている。それら多数の人物の行動を、フォークナーは第三者の視点を介在させることなく、それ自体で語らせるという方法を取っているので、読者としては事実関係がなかなか整理されないで、かなりページが進んでからやっと輪郭が見えてくるといった、回りくどい眼にあわされるのだが、それはそれで、この小説を読む醍醐味の一つといえなくもない。

この小説の最も迫力ある部分は、ポパイによる少女テンプルの性的虐待にかかわるところなのだが、それをフォークナーは直接描写せずに、彼女が監禁されている売春宿の女衒たちの会話を通じて、間接的に浮かび上がらせるという方法をとっている。その場合に、テンプルはすこし頭の弱い意志の薄弱な少女として、まともな思考回路とは到底いえないような言動をするので、読者にはものごとの真偽がなかなか飲み込めない。しかもこの少女は、裁判の中で偽証をし、自分をひどい目に合わせたのはポパイではなく、嫌疑をかけられているその(他の)男だと証言して、冤罪の成立に手をかす有様なのだ。彼女がなぜ、こんな不条理なことをしたのか、小説からは全く伝わってこない。アメリカ人なんて、子供の頃から頭が弱く、大人になっても馬鹿なことばかりしている愚かな連中なのさ、そんなふうにフォークナーは言っているかのように、読者には伝わってくるのである。

もしそれが本当だとしたら、これはアメリカの救いのなさを描いた、世にも救いのない物語ということになる。




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