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井筒俊彦「意識と本質」を読む


井筒俊彦の著作「意識と本質」は、意識を基盤として本質を論じたものである。副題に「精神的東洋を求めて」とあるように、東洋思想の根源にせまろうという意図も含んでいる。

意識といい、本質といい、西洋哲学のタームである。そのタームを用いて東洋思想を語るところに井筒俊彦の特徴がある。東洋思想特有のタームを用いて東洋思想を語れば、たとえば仏教固有のタームを用いて仏教を語れば、西洋的な思考をする人にはわかりにくかろうし、仏教のタームを通じてでは、ほかの東洋思想例えばイスラーム神秘主義の思想は理解しづらかろう。と言って、仏教とイスラーム神秘主義に通底するようなタームは、なかなか見つけづらい。そこを西洋哲学のタームを用いて説明すれば、なんとなくわかりやすい気がするものだ。井筒が東洋思想の解説者として世界的な名声を博しているのは、こういう事情が働いているからだと思う。

意識といい、本質といい、それぞれ西洋哲学史上確立された固有の意味を持っている。西洋哲学で意識といえば、おおよそがデカルトの明証的な意識を意味する。デカルトの明証的な意識は、自覚的な意識をさす。自覚的な意識は、意識の表層で働くもので、意識の深層、それをフロイト流に無意識と呼ぶことができるが、そういうものはとりあえず問題としない。一方、本質とは、あるものが何であるかという問いへの答え、何であるかについての定義のことで、ソクラテス以来西洋哲学が一貫して問題としてきたところである。これは一応、あるものの何であるかについての定義であるから、あるものの存在についてはとりあえず問題としない。ここから西洋哲学では、本質を論じる認識論と、存在を論じる存在論とは、形式的に切り離して扱われて来た。

これに対して東洋思想においては、意識は表層意識にとどまらない。意識とは、表層意識の下に更に深い意識層(深層意識とか無意識と呼ばれる)を抱え込んだ重層的・階層的な構造を呈している。西洋哲学では、このうち表層意識にもっぱら着目し、その表層意識の分節作用によって対象の本質があらわれて来るという見方をするが、東洋思想では、対象はただに表層意識によってとらえられる本質の層にとどまらず、意識の階層性に応じたかたちの、もっと重層的な存在構造を持っていると見る。だから東洋思想では、表層意識で捉えられた本質を、それ自体としてはあまり重視しない。このようにして捉えられた対象は、対象のほんの上澄みの現われに過ぎないとするのが普通である。人間は、そうした上澄みで満足するのではなく、対象をトータルにとらえねばならないとする。極端な場合には、仏教のように、本質としてあらわれる対象は、人間の表層意識の働きによる妄想に過ぎないとするような極端な見方をする。そこまで極端でなくとも、西洋的な意味での本質を、軽視あるいは否定する立場の考え方が、東洋思想には有力である。

東洋思想といっても、アラビアやイランのイスラーム思想からインド起源の仏教そして支那の易の思想まで、かなり幅広い。しかもそれぞれ歴史的に独自の発展を遂げてきている。それらのさまざまな思想を前にして、「東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的連関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化したいというのが私の当面のねらいなのだ」と井筒は言う。共時的とは、いまの時点でこれら東洋の諸思想に共通するものを取り出して、それをもとに東洋思想全体としての特徴をえぐりだそうということであろう。

そこで東洋思想全体に共通する考え方のパターンが問題となる。東洋思想においても、西洋思想同様、表層意識によって分節化された日常的な経験世界から思考を始める。西洋思想は、その思考をあくまで表層意識の範囲内にとどめるわけだが、東洋思想では、意識の深層へと潜航して行って、ただに意識によって分節化された本質に満足するだけでなく、存在の真の全体像を捉えようとする。それも意識の深層において。東洋思想においては、意識は階層的構造をなしており、そのうち表層意識が捉えられるのは存在のほんの表面であるにすぎない、その真の全体像は、深層意識によってしかとらえられないと考える傾向が強い。

こんなわけだから、東洋思想は、表層意識によって捉えられた日常的な経験から始めながらも、それにとどまることなく、意識の深層へと入って行って、その最深層において存在の全体像にせまろうとする。そうして得られた存在の全体像は、意識による分節作用以前の姿で現れる。分節化される以前の対象のあり方は、未分節なものという意味の言葉で呼ばれる。イスラーム神秘主義では絶対存在と呼び、仏教では無と呼び、道教では道と呼び、易では太極と呼ぶ、といった具合である。いずれにしても、対象を本質の相においてではなく、その存在の全体像としてつかまえようとするのが東洋思想に共通する特徴であり、それは意識の深層によって成就されると考えるところに東洋思想の西洋思想との決定的な違いがある。西洋思想が対象の本質の認識で満足するところを、東洋思想は対象の全面的な把握をめざすのである。そこには、宗教的な動機が介在している。東洋思想が、本質を超えて対象の全体像をめざすのは、究極の真理への渇望が働いているからであって、そうした渇望は宗教的な動機と相通じるところがある。東洋思想が、イスラームとか仏教とか道教とか、宗教的な考えと一体になっている所以である。

東洋思想に共通する特徴を、とりあえずこのように抑えたうえで、井筒は、個々の思想の独自の特徴へと、分析を進めていく。共通点を踏まえた独自性の分析であるから、そこには互いに響きあうものが感じられるようになっている。以下、井筒による東洋思想個々の興味ある分析をたどってみたいと思う。


普遍的本質と個体的本質:井筒俊彦「意識と本質」

本質実在論と意識の階層構造:井筒俊彦「意識と本質」


カッバーラー:井筒俊彦のユダヤ神秘主義論

禅の無本質的存在分節:井筒俊彦「意識と本質」

本質直観:井筒俊彦「意識と本質」


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