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井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」を読む


井筒俊彦の著作「コスモスとアンチコスモス」は、カオスとコスモスの対立について論じたものである。カオスとコスモスといえば、通常浮かんでくるイメージは、混沌と秩序の対立である。その対立においては、カオスはマイナスイメージ、コスモスはプラスイメージとして捉えられる。混沌として形が定まらぬカオスに、秩序が与えられて形ある世界としてのコスモスが形成される、というのが普通の(西洋的な、したがって今日における地球支配的な)考え方だ。その考え方は、旧約聖書にも示されている。

創世記は世界の創造を次のように記している。「地は(いまだ地としては存在せず、見渡す限り、ただ)曠々漠々、暗闇が底知れぬ水を覆い、神の気息(飆風)がその水面を吹き渡っていた。神が、光あれというと、光があった。神は光をよしと見て、光を闇から分けた。神は光を日と名づけ、闇を夜と名づけた」(井筒訳)。ふつう、ユダヤ・キリスト教においては、神はまったくの無から世界を創造したということになっているが、聖書を厳密に読めばそうではない。全くの無というのは、それこそ何もないことを意味するが、神はそういう意味での無から世界を創造したわけではない。神の前に原初にあったのは、無ではなく混沌である。神はその混沌に働きかけて、世界に形を与えた。つまり神は、無から世界を新たに想像したのではなく、混沌に形を与えて、今見るような世界に作り替えたのである。このプロセスを一言で表現すれば、神はカオスからコスモスを作り出したということになる。

以上のことは、聖書をきちんと読めば明らかなことであるが、なぜかキリスト教の伝統にあっては、この世界は神が無から新たに創造したということにされた。そういう想念を井筒は批判して、ユダヤ・キリスト教の世界観を、聖書に立ち戻って捉え直す必要があると言いたいわけであろう。その結果どういうことが生じるか。ユダヤ・キリスト教の世界観も、カオスとコスモスの対立という観念から成り立っているということの確認である。世界をカオスとコスモスの対立として捉える見方は、東洋的な世界観に通じるものがある。東洋的な世界観というのは、井筒によれば、無(あるいは非有)と有の対立、未発と已発の対立、無分節と分節の対立というようなことを根本にしている。無から有が生じ、未発が已発となり、無分節のものが分節されて形を得る、というふうに考える。これらの対立は、カオスとコスモスの対立に通じるものがある。

しかし、この指摘はあくまでも井筒の所見にもとづくものであって、幅広い支持を集めているわけではない。少なくともキリスト教圏の人びとは(無神論者でない限り)、あいかわらず神が無から世界を創造したと考えている。そんな具合だから、キリスト教圏においては、世界をカオスとコスモスの対立という観点から考えるような思考スタイルはほとんど認知されていない。せいぜい文化人類学とかある種の記号論とか、狭い分野で論じられているにすぎない。とは言っても、井筒にとってこの概念セットは、捨てがたいものがあるようで、これを用いて、旧約聖書の世界観を分析してみたいという意欲を見せてくれる。

井筒によれば、神は全くの無から世界を創造したのではない。神の前にはすでに混沌というカオスがあった。神はそのカオスに働きかけて、それに秩序を与えた。その結果、我々が生きている世界が形成された。それをコスモスという。つまり世界は、カオスがコスモスへと転化したもの。そういうふうに考え直すわけである。その場合、神が最初に創ったものは光であった。神が光あれという言葉を発すると光が生じた。ということは、光そのものの前に、光というコトバが発せられ、それに従って光が生まれたことになる。つまり、光を作ったものは神のコトバなのである。コトバが光をつくり、そのほか様々なものを創った。コトバは存在に先立つということになる。

コトバが存在に先立つ、という考えは、ほかにも例がある。イスラーム神秘主義の一派ファズル・ッ・ラーの文字象徴主義がそうであるし、またユダヤ教のカッバーラーも同じような考え方をする。カッバーラーの場合については、井筒は、正統派のユダヤ教より聖書に忠実な結果、コトバを存在の原因と考えるようになったと思っているようである。

ともあれ、カオスからコスモスが生じるという考え方には、ほかの東洋思想と共通するものがある。たとえば荘子の思想。荘子は混沌を存在の原点とする。荘子の混沌はカオスにほとんど同じといっていいほど似た概念だ。混沌から日常的経験世界が生まれて来る。それが一応コスモスに相当するといってよい。だが荘子の場合には、コスモスよりもカオスとしての混沌のほうを重視する。真の実在はコスモスではなくカオスにあると考えるのである。荘子は、日常的な経験世界の深層に混沌を求める。それこそが真実在と考えるからだ。それには、日常的な経験世界を解体する必要がある。この解体を荘子は「斉物」と呼ぶ。すべてのものを斉しくするという意味である。すべての者を斉しくして、物と物とを区別する境界線を取り除けてしまい、存在をその究極的な本源性に引き戻そうとするわけである。

禅の場合には、無(あるいは空)を有の原点とする。無とは、まったくなにもないという意味の虚無ではなく、有ではないもの、という意味の非有と考えたほうがわかりやすい。非有から有が生じる。非有は有(存在)の究極的な原点であって、したがって有よりも存在リアリティが高い。無にくらべれば、有すなわちこの世界は虚妄であるにすぎない、とまで禅者は言う。この無あるいは非有がカオスに相当し、有がコスモスに相当すると考えてよい。この対立する二項のうち、禅者は荘子同様、カオスのほうに究極的な存在リアリティを認めるわけである。

以上、カオスとコスモスの対立であらわされるような世界解釈のための操作概念は、西洋と東洋とでは、違う方向にベクトルが向いている。西洋的な世界観にあっては、カオスに神が働きかけてコスモスを作ったという点から、コスモスを重視する。コスモスは神の賜物であって、しかも人間の知性がロゴス的にとらえることができる。人間をロゴスの動物と考えるアリストテレス以来の西洋的な考え方にあっては、コスモスこそが人間にとってふさわしい環境ということになる。それに対して東洋的な考え方にあっては、カオスこそが存在の原点であって、コスモスはそれの表層的な表れであるに過ぎないということになる。禅者などは、コスモスを虚妄と言っているくらいである。こうしたベクトルの相違は、西洋と東洋の相互理解にどう働くか。そのへんに、井筒の問題意識は集約されていくようである。


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