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イスマイル派暗殺団:井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」


イスマイル派はシーア派の分派で、十世紀の中葉にはエジプトを中心にファーティマ朝という強大な王朝をたてたほど勢力があった。そのイスマイル派の中から、アラムート派というものが生まれたのだが、その名称は、テヘラン北西部のアラムートという山岳地帯を拠点にした宗教運動だったことに基づく。この宗教運動は、宗教的敵対者を根絶することを目標とし、そのために独特な暗殺組織を作った。この暗殺組織は「暗殺団」と呼ばれ、十字軍がやって来た時には、その指導者を次々と暗殺した。その暗殺の能力が非常に高かったので、十字軍は脅威を感じ、その恐怖感をヨーロッパ社会に伝えた。その際の恐怖感は、もともと暗殺団を呼称する固有名詞だった「アサッシン」という言葉が、「暗殺」を意味する普通名詞になったことからもうかがわれる。このイスマイル派暗殺団について井筒俊彦は、多面的に解明してくれる。「コスモスとアンチコスモス」所収の小論「イスマイル派『暗殺団』」がそれだ。

井筒は論文を二部に分け、第一部ではイスマイル派の外形的発展過程について、第二部では思想の特徴について説明している。ここでは、第二部の思想体系についての井筒の論を取り上げたいと思うが、第一部の中で一つ印象深いのは、アラムート派の持つ階層性の指摘である。イスラームは本来、すべての人間は神の前では平等だという立場に立つのだが、アラムート派は、人間をいくつかの段階に階層化し、人間に上下の差別を設けたというのである。もっともその差別は、宗教上の達成度の違いに基づくものであり、生得のものではないということになっているが、いずれにせよ、アラムート派が厳しいカースト社会だったということは間違いないようだ。

さて、アラムート派の思想体系について井筒は、それを三つの論点に分けて論じている。第一は聖教論、第二は反律法主義、第三は宇宙論的ミュトスである。

まず、聖教論。聖教とはアラビア語のタアリームという言葉の訳だが、タアリームという言葉には、イマームの宗教的権威の絶大性という意味合いが込められているという。その絶大性は、預言者ムハンマドよりも、神に最も近く、時には神そのものでもあるといえるイマームの権威のほうを重んじるというものであって、これはムハンマドの預言者としての権威を絶対視するイスラームの主流派、つまりスンニー派にとっては許しがたい異端思想と受け取られている。

第二の反律法主義は、コーランに根拠づけられた律法の廃棄をめざすもので、これも主流派から許しがたい異端として受け取られている。イスラームというのは、礼拝の形式から日常生活の作法に至るまで、ことこまかく律法によって定められており、それに従うことは神聖な義務であった。ところがアラムート派は、そうした律法を悉く無視するのである。歴史上有名な出来事として、1164年の反律法主義の儀式があげられるが、その日、信者たちはいっせいに聖地メッカの方向に背を向けることにはじまり、イスラームの律法をことごとく廃棄する行動に立ちあがった。信者たちはこの儀式を「復活」と呼んだが、それはイスラームの本来あるべく形が取り戻されたということを意味したわけである。本来あるべきイスラームとは、地上がそのまま楽園であるような社会であり、信者たちは天国に生きているといってよい。天国には法律などはないのだから、人々は律法に従う理由はない、というのが、反律法主義の基本的な理屈であった。

第三の宇宙論的ミュトスであるが、アラムート派は新プラトン主義的、グノーシス的宇宙生成論を色濃く引き継いでいるという。新プラトン主義的、グノーシス的宇宙生成論とは、神が外部に向かって発出することで宇宙が生成したとする考えであり、アラムート派はこの考えを受けて、「宇宙すなわち全存在世界は神を始点として、そこから下に向かって重層的に拡がっていく」とした。その広がり方の様相は、ことこまかく区分されて語られるが、また井筒もそれをかなり詳しく紹介しているが、ここでは立ち入ることをしない。ただ、神による世界創造という点では、アラムート派とユダヤ・キリスト教には共通したところもあれば、相違するところもあると指摘していることをあげたい。

井筒の指摘によれば、ユダヤ・キリスト教の神は、宇宙の外部から働きかけて、無から世界を作ったということであり、したがって神と宇宙とは外面的な関係にある。神はあらゆる存在に先駆けて存在しており、神の他にはなにもなかった。つまり無だった。神は何もないところに働きかけて、宇宙を創造したのだ、というのがユダヤ・キリスト教の考え方だ。それに対してアラムート派の考え方は、神が無から宇宙を創造したという点では同じだが、しかし神自身も無から生まれたとする。ということは、神は無と外面的な関係にあるのではない。神は無から生まれたのであるから、その点では神以外の存在と同列である。神以外の存在は、たしかに神によって創造されたのであるが、神自身も無から生まれたという点では、他の存在者と相違するところはない。

何が神を生んだのであろうか。それについてアラムート派は、神自身の意思によるのだというばかりで、神誕生の詳しいメカニズムには触れない。原初の神は人間にとっては「知られざる神」であって、そういう神聖な存在についてあれこれ詮議するのは冒涜的だとする意識が働くからでもあろうか。だが神が一旦生まれた後の、宇宙生成のプロセスは、ユダヤ・キリスト教の宇宙生成説とよく似ている。つまり宇宙生成にあたっては、言葉の働きが決定的だという考えが、両者に見られるということだ。言葉が発せられることで、それに対応したものが生成する。つまり言葉が存在に先立つわけである。

以上のような、アラムートの思想体系が、どういう道筋で暗殺団の活動に結びつくのか。それについては、かなり周到な議論が必要になるだろう。アラムート派の暗殺活動は、十三世紀ころには下火になり、やがて流派全体が穏健化していった。イスラームといえば、現代社会では国際テロと結びつけて意識されることが多く、すべてのイスラームがテロリストだとは限らないが、すべてのテロリストはイスラームだなどと非難中傷されたりもする。だが、かつては国際テロ組織として怖れられたアラムート派暗殺団が、現代社会に影響しているということは指摘できないようである。唯一ヨルダンのドゥルーズ派が、イスラエルを対象に戦い続けているが、これはイスマイル派の分派である(アラムート派とは兄弟関係)。しかし国際テロ組織とはいえないのではないか。イスラエルとの間で、戦闘行為を繰り返しているにすぎない。一方、アルカイダとかISとかいったテロ組織は、アラムート派とは何の関係もない。アルカイダなどはスンニー派である。


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