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帰田園居五首その二: 陶淵明田園生活を歌う |
帰田園居五首の後半三首を取り上げる。第三首目は、第一首と並んで有名になった歌である。そこには、田園において日々耕作に励む喜びが描かれている。 帰田園居五首(其三) 種豆南山下 豆を種う南山の下 草盛豆苗稀 草盛んにして豆苗稀なり 晨興理荒穢 晨に興きて荒穢を理へ 帶月荷鋤歸 月を帶び鋤を荷ひて歸る 道狹草木長 道狹くして草木長じ 夕露沾我衣 夕露我衣を沾す 衣霑不足惜 衣が霑るるは惜むに足らず 但使願無違 但だ願ひをして違ふこと無から使めよ 南山の麓に豆を植えたが、雑草がはびこって豆の苗は見えない、朝早く起きて雑草を抜き、夜遅く月を眺めながら鋤を担いで家に帰る、道は狭く草が伸び放題で、衣は夜露でびっしょりになる、衣が濡れるのは別にかまわないが、収穫の願いだけは望み通りになってほしいものだ 四首目は、散策の途次に過ぎった廃墟を前に、人生が幻に似て儚いことを歌う。 帰田園居五首(其四) 久去山澤游 久しく去る山澤の游び 浪莽林野娯 浪莽たる林野の娯しみ 試攜子姪輩 試みに子姪の輩を攜へ 披榛歩荒墟 榛を披きて荒墟を歩む 徘徊丘壟間 徘徊す丘壟の間 依依昔人居 依依たり昔人の居 井竈有遺處 井竈遺處有り 桑竹殘朽株 桑竹朽株を殘す 久しく山沢の遊びから遠ざかっていたが、いまでは自由気ままに林野を歩くことができる、ふと思い立って子供らを連れ、灌木の茂みを開きながら荒れた村里に足を踏み入れた 墓地の間をぶらぶら歩いていると、かつて人の住んでいた家がそのままにあった、井戸や竈が昔の面影を残し、桑や竹は朽ちた株を残している 借問採薪者 借問す採薪の者に 此人皆焉如 此の人皆焉くにか如くと 薪者向我言 薪者我に向ひて言ふに 死沒無復餘 死沒して復た餘ること無しと 一世異朝市 一世朝市を異にす 此語眞不虚 此の語眞に虚ならず 人生似幻化 人生幻化に似て 終當歸空無 終に當に空無に歸すべし あたりで薪をとっている老人に、ここに住んでいた人たちはどこへ行ったか尋ねると、老人がいうには、皆死に絶えて一人も残っていない 「一世異朝市」ということわざがあるが、本当にその通りだ、人間の生涯は幻に似て、いつかは消えてなくなってしまうものなのだ(一世は三十年、異朝市は宮殿と市場が入れ替わること、世の中の変わりやすさを意味する) 五首目は、近隣との交わりを喜ぶとともに、日月の移ろいやすきことを歌う。 帰田園居五首(其五) 悵恨獨策還 悵恨して獨り策つき還り 崎嶇歴榛曲 崎嶇として榛曲を歴る 山澗清且淺 山澗清く且つ淺し 可以濯吾足 以て吾が足を濯ふ可し 漉我新熟酒 我が新たに熟せる酒を漉し 隻鷄招近局 隻鷄もて近局を招く 日入室中闇 日入りて室中闇く 荊薪代明燭 荊薪明燭に代ふ 歡來苦夕短 歡び來りて夕の短きを苦しみ 已復至天旭 已に復た天旭に至る 痛み悲しんで一人杖をついて帰り、灌木の生えた険しい道を通る、山の水は清らかでかつ浅い、足を注ぐにはちょうどよい、 新たに醸成した酒を漉し、鶏を一羽つぶして近隣の人々を招く、夕方になって部屋の中は暗いので、薪をたいて明かりの代わりにする、話が弾んで喜ばしい気分になったところで夜の短いのが残念だ、もう朝方になってしまった(悵恨は痛み悲しむこと、第四首の内容をひきずっているのであろう、可以濯吾足は屈原魚父辞に「滄浪の水濁らば以て我が足を濯ぐべし」とあるのをふまえたもので官途をやめる意味、近局は近隣に同じ) |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007 |