HOME | 本館ブログ | 漢詩と中国文化 | 東京を描く | 万葉集をよむ | プロフィール | 掲示板 |
閑情賦:陶淵明のエロティシズム |
閑情賦は、陶淵明の数ある作品の中でも、古来議論の多かったものだ。陶淵明といえば反俗を旨とし、田園に生きることを謳歌した詩人というイメージが確立されていたから、人間の情念を怪しく描いたエロティシズム溢れるこの作品は、淵明にまとわるイメージから著しく外れていると受け取られてきたのである。 閑情とは閑かな情ということではなく、情を閑めるという意である。情とは情念、すなわち欲情をさす。欲情を鎮めるというのであるから、文意の上からは禁欲を旨としたものでなければなるまい。ところが、この作品は、全編人間の欲情をくまなく抉り出して語っている。 だから一読しての印象は、「放蕩賦」とも名づけたくなるようなものだ。着物の襟となって女の首の匂いをかいでみたいと願ったり、履物となって女の足に踏まれてみたいと願ったり、その欲情は見境がない。 閑情賦とはだから、欲情を発散させることで初めて心の平衡を求めようとする、逆説的な心のあり方を歌ったものなのだといえよう。 中国の歴史上、エロティシズムを好んで取り上げた文人は皆無に近い。怪力乱神を語らずという精神的な伝統が、そのような行為を強く抑制してきたからである。だから、陶淵明がこのような作品を書いたことは、後世の人々にとって理解しがたいものに映った。 梁の蕭統などは、この作品を白壁の微瑕と呼んで、その価値を貶めようともした。だがこの作品はそんな思惑を超えて長く生き続けてきた。ある意味では、陶淵明という詩人をもっとも良く語っているものかもしれぬ。 閑情賦・序文 初張衡作《定情賦》,蔡邑作《靜情賦》, 檢逸辭而宗澹泊,始則蕩以思慮,而終歸關ウ。 将以抑流宕之邪心,諒助於諷諫。 綴文之士,奕代繼作,並固觸類,廣其辭義。 余園閭多暇,復染翰為之。 雖文妙不足,庶不謬作者之意乎? 初め張衡《定情賦》を作り,蔡邑《靜情賦》を作れり。 逸辭を檢へて澹泊を宗とし,始めは則ち蕩(うご)かすに思慮を以てし, 而して終に關ウに歸す。 将に以て流宕之邪心を抑へ,諒に諷諫に助けあらんとす。 文を綴る之士,奕代繼いで作り, 並びに類に觸るるに固(よ)りて,其の辭義を廣めたり。 余は園閭暇多く,復た翰を染めて之を為れり。 文の妙は足らずと雖も,庶はくは作者之意を謬らざらん乎? 漢の張衡は《定情賦》を作り、ついで蔡邑は《靜情賦》を作った。いづれも放埓な文辞を抑制して、淡白を旨としていた、始めこそは放蕩に流れていても、最後は端正にまとめている、あたかも邪まな欲望を抑えて、諷諫の一助にしようとしたかのようだ、 その後、さまざまな文士が現れ、同じような主題を取り上げては、その辞儀を広めてきたものだ、 余は、田舎住まいで暇も多いことから、先人にならって筆をとり、同じ主題を掘り下げてみようと思った次第である、文の妙は足らずといえども、先人たちの意に反せざることを願う 閑情賦・本文 夫何環逸之令姿 夫れ何ぞ環逸之令姿の 獨曠世以秀羣 獨り曠世以て羣に秀づるや 表傾城之艶色 傾城之艶色を表し 期有コ於傳聞 有コを傳聞に期せん それ何と美しい姿の、世に秀でたることよ、そなたの美しさを称え、有徳のさまを世に知らしめよう 佩鳴玉以比潔 鳴玉を佩びて以て潔きを比し 齊幽蘭以爭芬 幽蘭と齊びて以て芬を爭ふ 淡柔情於俗内 柔情を俗内に淡くし 負雅志於高雲 雅志を高雲に負ふ そなたの清らかさは鳴玉のようで、そなたの薫り高さは谷間に咲く蘭の花のようだ、そなたの優しい心は俗世間では目立たぬが、志の高さは雲にも比せられる 悲晨曦之易夕 晨曦の夕れ易きを悲しみ 感人生之長勤 人生の長き勤しみなるを感ず 同一盡於百年 同じく一(みな)百年に盡き 何歡寡而愁殷 何ぞ歡び寡くして愁ひ殷きや 朝の日は暮れやすく、人生は苦しみばかり、人の寿命は百年に過ぎないというのに、何故喜びは少なく愁いばかりが多いのか 掲朱幃而正坐 朱幃を掲げて正坐し 汎清瑟以自欣 清瑟を汎して以て自ら欣ぶ 送纖指之餘好 纖指之餘好を送り 攘皓袖之繽紛 皓袖之繽紛たるを攘(はら)ふ 瞬美目以流眄 美目を瞬きて以て流眄し 舍言笑而不分 言笑を舍みて分たず そなたは赤い帳をかかげて正座し、琴を弾じて自らを慰められる、そなたの細い指先からは妙なる音が流れ出し、音につれて袖先が舞い上がる、時に美しい目を瞬いて流し目を送り、口元をほころばせては何を言おうというのだ 曲調将半 曲調将に半ばならんとし 景落西軒 景 西軒に落つ 悲商叩林 悲商 林を叩き 白雲依山 白雲 山に依る 曲の調べが半ばにならんとする頃、夕日が西の軒端に沈んだ、秋風が林に吹き渡り、白雲が山の端にただよう(悲商:秋風) 仰睇天路 仰ぎて天路を睇め 俯促鳴絃 俯して鳴絃を促せば 神儀憮媚 神儀 憮媚たり 舉止詳妍 舉止詳妍たり そなたは天を眺め上げると、目を伏せて琴に向かう、心ざまの何とやさしく、振る舞いの何と麗しいことよ(神儀:心ざま、舉止:立ち居振る舞い) 激清音以感余 清音を激して以て余を感ぜしむ 願接膝以交言 願はくは膝を接して以て言を交へん 欲自往以結誓 自ら往いて以て誓を結ばんと欲するも 懼冒禮之為侃 禮を冒すの侃(あやまち)たるを懼る 余はそなたの発する清音に感じ入り、そなたと膝を接して言葉を交わしたく、是非そなたの傍に行きたいと思うのだが、礼を失するのではと躊躇するのだ 待鳳鳥以致辭 鳳鳥を待って以て辭を致さんとすれば 恐他人之我先 他人我に先んぜんことを恐る 意徨惑而靡ィ 意 徨惑してィ(やす)きこと靡く 魂須臾而九遷 魂 須臾にして九遷す 鳳鳥を使いに立ててわが思いを届けようと思うのだが、他人が先を越すのではと恐れられてならぬ、思いは千路に乱れ、心はめまぐるしく揺れ動く 願在衣而為領 願はくは衣にありては領と為り 承華首之餘芳 華首の餘芳を承けん 悲羅襟之宵離 悲しいかな 羅襟の宵に離るれば 怨秋夜之未央 秋夜の未だ央きざるを怨む 願わくばそなたの衣の襟となって、首の香りをかいでみたい、だが悲しいことに衣は宵に脱ぎ捨てられ、長い夜を耐え忍ばねばならぬ 願在裳而為帶 願はくは裳にありては帶となり 束窈窕之纖身 窈窕の纖身を束ねん 嗟温良之異氣 嗟 温良の氣を異にすれば 或脱故而服新 或は故きを脱ぎ新式を服る 願わくばそなたの裳の帯となって、そなたのか細い腰を束ねてみたい、だが気候が変われば旧い裳は脱ぎ捨てられてしまうかもしれぬ 願在髮而為澤 願はくは髮にありては澤となり 刷玄鬢於頽肩 玄鬢を頽肩に刷はん 悲佳人之屡沐 悲しいかな佳人屡しば沐し 從白水以枯煎 白水に從りて以て枯煎するを 願わくばそなたの髪に塗る油となって、そなたの髪をとかしてみたい、悲しいことには沐浴の際、水で洗い流されてしまうだろう(澤:髪油) 願在眉而為黛 願はくは眉にありては黛となり 隨瞻視以阯g 瞻視に隨って以て閧ゥに揚らん 悲脂粉之尚鮮 悲しいかな脂粉の鮮かなるを尚び 或取毀於華粧 或は華粧に毀たれんことを 願わくばそなたの眉に塗る黛となって、そなたの視線の動きに従い自らも上下してみたい。悲しいことには白粉はたびたび塗り替えられ、そのたびに消されてしまうかもしれぬ 願在莞而為席 願はくは莞にありては席となり 安弱體於三秋 弱體を三秋に安んぜん 悲文茵之代御 悲しいかな文茵の代り御して 方經年而見求 年を經るに方りて求められんことを 願わくば蒲のむしろとなって、そなたのか弱い身体を秋三月の間休ませてあげたい、悲しいことには秋の終わりには、トラの皮の敷物によって取って代わられるかもしれぬ(文茵:模様のあるトラの皮の敷物) 願在絲而為履 願はくは絲にありては履となり 附素足以周旋 素足に附きて以て周旋せん 悲行止之有節 悲しいかな行止の節ありて 空委棄於床前 空しく床前に委棄せらるるを 願わくば生糸で編んだ履となって、そなたの素足とともに歩んでみたい、悲しいことに歩まぬときには、空しく床前に履き捨てられたままかもしれぬ 願在晝而為影 願はくは晝にありては影となり 常依形而西東 常に形に依りて西東せん 悲高樹之多蔭 悲しいかな高樹の蔭多くして 慨有時而不同 時ありて同にせざるを慨(かこ)つ 願わくば日中は影となって、そなたと挙動をともにしたい、悲しいことに木陰多く、時には共にいることが出来ぬかも知れぬ 願在夜而為燭 願はくは夜にありては燭となり 照玉容於兩楹 玉容を兩楹に照らさん 悲扶桑之舒光 悲しいかな扶桑の光を舒べ 奄滅景而蔵明 奄ち景を滅して明を蔵(かく)すを 願わくば夜の間は蝋燭となり、柱の間にそなたの姿を照らしたい、悲しいことに朝が来れば、日が昇ってわが光を隠すかもしれぬ 願在竹而為扇 願はくは竹にありては扇となり 含凄風於柔握 凄風を柔握に含まん 悲白露之晨零 悲しいかな白露の晨に零ちては 顧襟袖以緬漠 襟袖を顧みて以て緬漠たるを 願わくば竹で編んだ扇となって、そなたの手に握られ涼しい風を送りたい、悲しいことに露が落ちる頃には、そなたの襟袖に後ろ髪を引かれつつ去らねばならぬ 願在木而為桐 願はくは木にありては桐となり 作膝上之鳴琴 膝上の鳴琴と作らん 悲樂極以哀來 悲しいかな樂しみ極りて以て哀しみ來り 終推我而輟音 終に我を推して音を輟(や)めしむるを 願わくば木にあっては桐となり、そなたの膝の上の琴となりたい、悲しいことに楽しみ極まり悲しみ来れば、弾かれることもなくなるかもしれぬ 考所願而必違 願ふ所は必ず違ふを考ふれば 徒契闊以苦心 徒に契闊して以て心を苦しましむ 擁勞情而罔訴 情を勞して而も訴ふる罔きを擁して 歩容與於南林 歩して南林に容與す 棲木蘭之遺露 木蘭の遺露に棲(やす)み 翳青松之餘陰 青松の餘陰に翳れん わが願いはどれも満たされることがない、いたずらに身を切られるような辛い思いをするばかり、悶々とした思いを抱いて、南林に徘徊しては、木蘭の露の傍らに身を休め、青松の影に身を隠そう 儻行行之有覿 儻(も)し行き行きて覿ること有らば 交欣懼於中襟 欣びと懼れと中襟に交ごもならん 竟寂寞而無見 竟に寂寞として見ること無く 獨悁想以空尋 獨り悁想して以て空しく尋ねん もしそなたに会うことがあらば、わが心中には喜びと恐れが交差することだろう、だがついに会えることなく、心に憂えを抱きながら空しく訊ね回るばかりだろう 斂輕裾以復路 輕裾を斂めて以て路に復り 瞻夕陽而流歎 夕陽を瞻て流歎す 歩徙倚以忘趣 歩み徙倚として以て趣を忘れ 色慘悽而矜顏 色は慘悽として顏を矜す 裾をからげて帰り道につき、夕日を眺めては溜息をつく、我が歩みはとぼとぼとして行き先もわきまえず、顔色は優れずして涙さえ流れるのだ 葉燮燮以去條 葉は燮燮として以て條を去り 氣凄凄而就寒 氣は凄凄として而て寒に就く 日負影以偕沒 日は影を負ひて以て偕に沒し 月媚景於雲端 月は媚(なまめ)かしく雲端に景(ひか)る 葉ははらはらと枝から落ち、空気は寒々としてきた、日は沈んであたりは暗くなり、月が雲の端にかかる 鳥悽聲以孤歸 鳥は聲を悽にして以て孤り歸り 獸索偶而不還 獸は偶を索めて還らず 悼當年之晩暮 當年の晩暮を悼み 恨茲歳之欲殫 茲の歳の殫きんと欲するを恨む 鳥は悲しい鳴き声をあげながら巣に戻り、獣は伴侶を求めてうろつきまわる、悲しいかな余も次第に年をとって、今年もまた去らんとするのを恨む 思宵夢以從之 宵夢以て之に從はんと思へども 神飄飄而不安 神飄飄として安からず 若馮舟之失棹 舟に馮りて棹を失へるが若く 譬縁崖而無攀 崖に縁りて攀る無きに譬ふ せめて宵の夢の中でそなたに会いたいと思うのだが、心は飄々として定まらない、船に乗りながら棹を失い、崖をよじらんとしてつかむところのない気持ちだ 于時畢昂盈軒 時に畢昂は軒に盈ち 北風凄凄 北風凄凄たり 耿耿不寐 耿耿として寐られず 衆念徘徊 衆念徘徊す 起攝帶以伺晨 起きて帶を攝(むす)びて以て晨を伺ふに 繁霜粲於訴階 繁霜訴階に粲たり 星星は軒先に輝き、北風はわびしく吹く、目が冴えて眠ることもならず、様々な思いが去来する、起き上がって帯を結び朝の来るのを待たんとすれば、階には霜が降りて白く輝いている 鶏歛翅而未鳴 鶏は翅を歛めて未だ鳴かず 笛流遠以清哀 笛は遠きに流れて以て清哀たり 始妙密以閑和 始めは妙密にして以て閑和なるも 終寥亮而藏摧 終には寥亮として藏摧く 鶏はまだ羽根を収めて寝ているというのに、遠くに笛の音が聞こえる、始めはしめやかで穏やかな音であったが、次第に高らかに響き、聞くものの腸を砕くほどだ 意夫人之在茲 意ふに夫人の茲に在りて 託行雲以送懷 行雲に託して以て懷ひを送るならんか 行雲逝而無語 行雲逝いて語無く 時奄冉而就過 時は奄冉として過に就く もしかしたら、そなたがそこにいて、雲に託して思いを送ってくれるのだろうか、だが雲は去って言葉は届かず、時はたちまちに過ぎ去り行く 徒勤思以自悲 徒らに勤しみ思ひて以て自ら悲しみ 終阻山而帶河 終に山に阻まれ河に帶る 迎清風以去累 清風を迎へて以て迎累を去(しりぞ)け 寄弱志於歸波 弱志を歸波に寄せん いたずらに思い煩ったばかりに、そなたとはついに山河に隔てられてしまったようだ、もう思い煩うことはやめて、心中の悩みを風に乗せて吹き払い、惰弱な心を東流する川に流そう 尤蔓草之為會 蔓草の會を為すを尤(とが)めて 誦邵南之餘歌 邵南の餘歌を誦ぜん 坦萬慮以存誠 萬慮を坦(うちあ)けて以て誠を存し 憇遙情於八遐 遙情を八遐に憇はしめん 男女の密会をこそこそと求めることはやめ、高らかな歌を歌おう、妄想を打ち明けて清い心に戻り、雑念を吹き飛ばしてしまおう |
前へ|HOME|次へ |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007 |