学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その五


 その年の五月の飛び石連休が過ぎて新緑が日に日に深まる頃、小生は英策と誘い合わせて依田学海の墓を訪ねた。あらかじめ乗る列車を示し合わせておいて、船橋駅で車内合流し、日暮里で降りた。学海の墓がある谷中の墓地は南口を降りて石段を登り、数分歩いたところにある。我々はまず霊園管理事務所に立ち寄り、受付の女性事務員に学海の墓の所在を聞いた。事務員は霊園案内図を取り出して、学海の墓の所在を教えてくれた。広い霊園には番地のようなものが付されていて、依田学海の墓は乙列3号6側というところにあった。管理事務所からは目と鼻の先だ。
 管理事務所のすぐ近くにある花屋で花を買い求めて、我々は依田学海の墓に向かった。墓はすぐに見つかった。墓石がぶっきらぼうに立っていて、正面には依田学海埋骨処と彫ってある。また三方の石面に学海の出生やら官歴を中心に簡単な履歴が記されていたが、署名はなく墓誌と言えるような体裁ではなかった。墓の背後に卒塔婆が何本か立ててあって、それを読むと数年前のものだとわかる。最近花が供えられた形跡はない。おそらく長い間墓参りに訪れる者がなかったのだろう。学海の墓の隣には、依田子威という人の墓誌が立っていたが、この人は学海とは直接の関係はなさそうだ。何故学海の隣に同じ依田姓の人物の墓誌があるのか、詳しい事情はわからなかった。
 墓参りを終えた後、昼餉をとろうと思って周囲を見渡したがそれらしい構えの店が見当たらない。そこで日暮里駅まで戻り、線路を挟んで反対側の都バスの発着場所がある広場の方へ下りていき、さる食堂に入ってビールを飲みながら軽い食事をした。
「意外とあっさりした墓だったな」と英策が言った。小生は相槌をうちながら、
「見たところ卒塔婆は数年前のものが立っていたが、その後は人が訪れた気配がない。無縁ではなさそうだが、親身になって墓参りをする人はいないらしい」「卒塔婆にしたって親族が立てたものかどうかわからない。親族らしい人が来ているかどうか管理事務所に聞いてみようか?」 そう英策が言うので、
「いや、そこまでは必要ないだろう。本格的な史伝を書くわけではないから、俺としては親族に会う必要までは感じないね。鴎外のように本格的な史伝を書くつもりなら、関係者に隈なく当たるのが常道なのだろうけれど」
「そうだな、俺にしてもたとえ親族がいたにせよ是非会いたいというわけではない」
 そんなわけで我々は依田学海の墓参りを儀礼的に行ったという次第だった。小生としてはこれで一つの区切りがついたので、あとは心置きなく依田学海に向き合えるような気がした。
 その日は佐倉に行っていくつかやることがあったので、英策と共に京成電車に乗り佐倉まで一緒した。佐倉駅につくとそこで別れ、小生は宮小路の家に向かった。京成佐倉駅前から急な坂道を上がって樹木に覆われた間道を歩くこと十五分ほどで着く。
 玄関を入るとすぐに奥の間に行き雨戸を開けて空気を入れ替えた。新緑の匂いをたっぷり含んだ風が座敷の奥の方まで吹き込んで来た。気持ちがよかった。やはり初夏の風は人の気持をのびやかにしてくれるものだ。
 台所でインスタントコーヒーをいれ、それを持って玄関わきの四畳半の部屋に入った。特に急いでやらねばならぬほどのこともないのだが、いままで気にかかっていながら放置していた案件を片付けにかかった。たいした用事ではないので、気楽なものだ。そうしてしばらく机に向かっていた。この机はこの家を借りるときに大家の老婆が入居祝いだといって贈ってくれたものだった。なんでも明治時代に特別にあつらえたもので、大家の夫も、その父親も、そのまた父親もこの机を使っていたということだった。品物自体はたいして値打ちあるものではないらしいが、いかにも古い町の歴史を感じさせるところが取り柄だった。
 しばらくして何かごそごそという音が聞こえて来たように感じた。音源は奥の八畳間らしい。風のためになにかが揺られているのかと思ったが、そうでもないようだ。人が立てるような音なのだ。いまどき変だなと思いながら四畳半の部屋を出て奥の八畳間に向かった。そこで小生は不思議なものを見たのだった。
 床の間の前に置いてあったお膳の上に小柄な人物が腰をかけていた。小柄というより小人といったほうが当たっているかもしれない。体格は小学生の二三年生くらいなもので、身長は120セントとか130センチくらいだろう。小さな体つきなので、お膳の上にちょうどよい具合に腰かけることができるのだ。もっとも顔つきは子どもではなく老人のそれである。おそらく六十歳くらいになっているだろうことは、白くなった顎髭から推測できる。その老人が藤色基調の狩衣を着込み、黒っぽい色の烏帽子をかぶっている。烏帽子は上下に長い立烏帽子である。そのさまがなかなかの風格を感じさせた。
 ところでこんなものが、あるいはこんな人が、何故また我が家の中に現われたのか、小生ははじめわけがわからなくて混乱した。しかし老人の顔をよく見ると、依田学海だとじきにわかった。本の口絵の写真にあった彼の顔そのままだったからだ。しかしその依田学海がなぜここにいるのか。小生にはそんなことを思い悩んでいる暇はなかった。すぐに驚きの言葉が口をついて出たのだ。
「もしかしてあなたは依田学海先生ではないですか?」
 その男の威風堂々としてしかも思慮深そうな顔が、思わず小生をして先生と呼ばしめたのだ。するとその人物は、
「ワシは先生と呼ばれるようなものではない。若い頃から弟子をとってはいたが、弟子たちとは学問の同志として接していたので、決して先生の自覚を持ったことはないし、また弟子たちもワシを先生と呼ばなかった」と答えた。
「ではなんと呼ばれたのですか?」
「師と呼ばれておった」
「師と先生とに何か違いがあるのですか?」
「言葉が違えばそれに応じて表わされる内容も違ってくるものじゃ」
「私には先生のおっしゃる意味が、浅学のためにわかりかねますが、もっとわからないのは何故先生が今ここにおられるかということです。先生は天保時代に出生して明治時代に亡くなったのではありませんか。いまは平成という時代で、明治維新からは百年以上も後の時代です。その時代になぜ先生はやってこられたんですか?」
 小生がこう言うと先生はやや表情をほころばせて答えた。
「オヌシはワシを種に使って小説を書く気でいるそうじゃな。草葉の陰でそんな噂に接したもので、どんな具合か見て見たくなったのじゃ。ワシがここに来るのは初めてのことじゃない。桜の花が咲いていた頃に一度やってきたことがある。しかしその時は、オヌシはオナゴを抱いておった。この部屋に素裸で寝転がってオナゴの腹の上に覆い重なり、オナゴはオナゴで下からオヌシに抱きついてうめき声ともため息ともつかぬ声を立てておった。そこでワシは場違いな所に来たと思ったのじゃ。なにしろエビのように折り曲げたオナゴの両脚の間からオヌシの尻の穴まで見えたのじゃからな」
 いきなりこう言われて小生はますます混乱してしまった。桜の花の咲く頃この家に来たと言ったが、それは小生が英策と花見をした後あかりさんとも花見をしてこの部屋でくつろいでいたときのことに違いない。その日に小生は先生をモチーフにした小説を書く気になったので、その気持ちが冥界の先生に届いたのかもしれない。それにしてもあかりさんと抱き合っているところを人に、つまり先生に、見られたのは不覚だった。
 あの日小生は初めてあかりさんを抱いたのだった。あかりさんは意外と素直に小生の気持に応じてくれた。それに感激した小生は床に布団を敷き、あかりさんを抱きながらそこに横たわったのだった。そのクライマックスというべき場面を先生に見られてしまったわけだ。しかしあかりさんを抱きながら幸福感に浸っていた小生には、背後から自分の尻の穴を見ている者がいるなどとは、夢にも思わなかった。
「まあ、そんなに驚かんでもよい。ワシのようにあの世とこの世を往来するのは冥界では別に珍しいことではない。冥界では冥界そのものをこの世と言い、オヌシたちが生きているこの世界をあの世と言うのじゃが、あの世に生きている人間がこの世に来た経験がないのに比べ、この世つまり冥界に住んでいる者は一度はあの世、つまりオヌシらの生きている世界を経験しているものじゃから、あの世とこの世の間を往復することはよくあることなのじゃ」
 先生の言っていることは、半ばはわかるような気もするし、半ばは荒唐無稽なような気もする。第一今ここにいる先生はどんな資格でいるのだろうか、それがわからない。幽霊としてか? それなら足があるのがおかしい。生身の人間としてか? それなら大人でありながら子供のような体をしていたり、音もなく家の中に入って来るというのが腑に落ちない。一体先生は何者で、どのようにしてこの家に入って来られたのか、小生にはわからないことばかりで頭が混乱する一方であり、事態を冷静に受け止めることができなかった。




HOME| 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである