学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その九


 安政四年一月、藤森弘庵翁は京阪に旅した。尊王攘夷運動の思想的な指導者たちと意見交換するのが目的だった。この旅に学海先生は小崎公平と共に随従した。小崎公平は伊勢亀山藩士で、後に政府の官僚となり岐阜県知事などをつとめた。学海先生より五歳年下でこの時満十七歳、学海先生は二十二歳だった。この若さが二人を弘庵翁が旅の従者に選んだ理由だったと思われる。翁は京阪の地で、頼三樹三郎、梅田雲浜、梁川星巌、僧月性といった人々と会うつもりでいた。いずれも尊王攘夷思想の論客である。
 出発予定の五日前に学海先生は淋病の症状が悪化した。痛みがひどいので公平に打ち明けたところ、それは大変だと言って解毒湯を作ってくれた。しかしそんなものではなおらない。兄に相談したら医師を紹介してくれたので、赴いて診療してもらった。医師の神保氏は薬を調合して、
「これを飲めば五六日でなおるじゃろう。出発を引き延ばして治ってから出かけるようにしたらよい」と言った。
 淋病は今でこそ抗生物質を飲めばすぐになおる病気だが、当時は結構厄介な病気だった。
 学海先生は出発を延ばしてもらえないかどうか同輩の荒木叔遠を介して弘庵翁に聞いてもらったが、翁はいまさら伸ばせないと答えた。先生はやむなく予定通り随従の旅に出ることを決意した。逡巡したら別の同輩に代えられてしまうだろう。先生にとっては初めての京阪の旅であり、是非とも行きたい気持ちが強かったのである。
 かくして安政四年一月十日、弘庵翁、学海先生、小崎公平の三人は京阪に向けて旅立った。一行は翌二月二日に京都に到着し、四日には大阪に移った。その旅の行程は日録中に詳しく記されている。いまはその記事を参照して彼らの旅の様子をのぞいてみたいと思う。

 一月十日。下谷の彀塾を出立。鷲津毅堂、横山湖山以下二十数人の門下生たちが見送ってくれた。鷲津毅堂は永井荷風の外祖父である。その毅堂と横山湖山はすぐに去ったが、その余の者は品川まで送ってきて、清風楼というところで送別の宴会を催した。宴たけなわのころ馬夫が先を急がせた。この旅では駅ごとに馬一口、輿丁二人を雇うことにしていたのである。その日は神奈川まで行き、旅館を探したがどこも満員で泊めてくれない。仕方なくある米屋に談判して泊めてもらった。そういう交渉事は主に学海先生の仕事だった。
 一月十一日。保土ヶ谷、戸塚を経て藤沢を過ぎ午後平塚に着いた。藤沢では小栗判官をしのび、平塚では翁の知人を訪ねた、その知人に大磯の旅館を紹介してもらった。
 一月十二日。鴫立つ沢で西行をしのび、小田原で昼飯を食い、夕近く箱根湯元に着いた。この頃学海先生は淋病の症状で疲労甚だしいのを感じた。そんなこともあって箱根の畑宿で一泊した。
 一月十三日。箱根の山中、公平が何度も転倒した。翁は輿から落ちた。幸いに学海先生は何とか無事歩くことができた。午後二時頃三島に着くと、至る所家屋が倒壊していた。安政地震の傷跡だった。沼津を過ぎて原駅に至り一泊した。
 一月十四日。田子の浦、清見潟の絶景を堪能し江尻の宿に一泊した。
 一月十五日。静岡を過るに、ここでも先年の地震の傷跡をまざまざと見た。大井川は水の量が少なかったがなるべく渡りやすいところを見つけて渡った。金谷で一泊。地震の作用か、宿の荒れ方がひどかった。
 一月十六日。小夜の中山、掛川、袋井を経て夕刻中泉に至った。ここにて林鶴橋を訪ねた。鶴橋は翁が長野豊山に学んだ時の同輩である。旧交を温めその家に宿した。
 一月十七日。林鶴橋の家に寄留した。
 一月十八日とその翌日も、引き続き林鶴橋の家に留まった。
 一月二十日。朝方林鶴橋の家を辞せんとして引きとどめられ、夕刻になって出立した。学海先生の淋病はようやく治りかけていたが、昨日大飲したのが祟ってまた症状が悪化した。我慢しながら歩き、浜松に一泊した。
 一月廿一日。雨の中を、蓑をまとって出立した。荒井駅、二川駅を過ぎて吉田駅に一泊。泊まった旅館は妓楼を兼ねていたが、さすが女好きの学海先生も自重した。宿の主人から春画を見せられ挑発されたが乗ることはなかった。淋病の症状も気になっていた。無論そんなことは恥になるから口には出さなかったが。
 一月廿二日。豊川を渡り、岡崎に一泊した。
 一月廿三日。矢作川を渡り、桶狭間の古戦場を過り、夕刻宮駅に至った。ここで先生は翁に従って熱田神宮にお参りした。弘庵翁は尊王論者として神社を敬うこと厚かったのである。参拝後宮駅の旅館に一泊した。
 一月廿四日。宮駅から船に乗って桑名に向かった。船中にはお伊勢参りの武士二十人ばかりが乗っていたが、これが船賃を払おうとしない。そこで船頭が怒ってひと騒ぎ起こりそうになったところ、弘庵翁が学海先生に命じて武士の船賃を代わって船頭に払わしめ、大騒ぎにならずに済ませた。この時代の武士の中には無銭飲食や無賃乗車を何とも思わぬ無茶苦茶な輩が多かったのである。夕刻四日市の旅館に投じた。この旅館で娼妓が出てきて膳をしつらえ、翁に対して馴れ馴れしい振る舞い方をした。翁は当初女の娼妓たるを知らずになすがままにさせていたが、やがてそのあまりに無礼なことに怒って、大声を出して叱責した。娼妓はその勢いに驚いて逃げ去って行った。翁の君子たるや知るべしといったところである。
 一月廿五日。この日は公平の実家がある伊勢亀山を目指した。公平を先に行かせ、学海先生は弘庵翁と後を追った。どういうわけか伊勢神宮には参らず、直接伊勢亀山に向かった。伊勢亀山では小崎公平の両親始め一家をあげて歓待してくれた。
 一月廿六日。小崎公平の家に寄留した。亀山藩の幹部が来て挨拶した。僧量快なるものも来た。
 一月廿七日。この日も小崎公平の家に留まった。僧量快が再び来って歓談した。話題が官による寺鐘の徴発に及んだ。この頃大砲を作る資材として寺の鐘まで徴発されたのである。そこで坊主としてそのことをどう思うか、学海先生が問いただすと、僧量快は、「いや鐘を挑発されてなくなれば、毎日つく手間が省けて却って都合がよいものです」と平気な顔で答えた。
 一月廿八日。引き続き小崎公平の家に留まった。
 一月廿九日。小崎公平の家を辞し、鈴鹿の関を過ぎて水口駅に一泊した。
 二月一日。草津駅を過ぎ、瀬田の大橋を渡り、大津駅に一泊した。
 二月二日。大津駅を発し、逢坂山を過ぎて午頃京都三条大橋に到着した。三条大橋は東海道の京都における帰着点である。東海道を江戸から上ってくる者はこの橋を渡って京都に入り、逆に京都から江戸へ下る者はこの橋から出立するのである。
 ともあれ江戸を出てから京都につくまでに二十二日を要した。そのうち七日間は滞留しているから実質十五日間かかったということになる。この時代の東海道の旅としては平均的なものだった。普通は東海道より中山道を選ぶ者が多かったのだが、先生の一行が東海道を選んだのは、ひとつには沿道に係累がいたこともあるが、冬季のために川の水量が低下しているという判断も働いたものと思われる。
 三条大橋のたもとにある旅館に投じ昼餉を食すると、弘庵翁は幾人かの知人を訪ねて歩いた。学海先生も翁に付き従った。訪問先は姉小路の家里新太とか知恩院前の池内陶所とか烏丸通りの頼三樹三郎などである。頼三樹三郎の印象を先生は、
「頼は年三十三・四、醜怪武人の如し」と記している。
 彼らとの会話の内容には触れていないから、おそらく挨拶程度の簡単なものだったのだろう。
 先生は翁とともに京都の町を歩き回って、そのたたずまいに大きな印象を受けた。日録にはその印象を次のように記している。
「凡て都中の街市は甚だ整斉、一街毎に一門を設く。其の製頗る大、江都の街門に比すれば美なること相倍す。又諸儒の宅甚だ美、江都富商の家宅に似たり」
 学海先生のような貧乏侍には京都の繁栄がまぶしく映ったようである。
 翌日は僧月性が雪の中を旅館まで訪ねて来た。この僧のことは学海先生もかねて聞き知っていた。日録には
「聞く、月性梗概、好んで辺防を論ずと。翁と論議するに及びては大声叱呼人を驚かす。初めてその信なるを知る」とある。
 また次のようにも書いている。
「人と為り梗概、常に外夷を以て憂と為す。因りて謂へらく、夷は邪法を設けて愚氓を脅誘す。是れ唯に国讐たるのみならず、実に仏讐たりと。乃ち経を説く毎に循々としてその事を論ず。国民帰依す」
 月性と意気投合した弘庵翁は相伴って飲み屋に出かけた。そのあとに家里と頼の二人がやってきて、彼らも飲み屋に合流して天下国家を大いに論じた。
 頼三樹三郎は翌年から始まった安政の大獄で弾圧され、ついには斬首された。月性のほうは大獄で捕らえられる前に病死したが、もし生きていれば頼と同じ運命をたどったであろう。尊王攘夷運動への影響と言う点では、月性の方がはるかに大きかった。それは彼が長州勢の尊攘運動に強い影響力を持ったためである。「人生到処有青山」の一句は彼の作として広く知られている。




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