学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十


 大阪に到着した翌々日、江戸からの書簡が旅館に届けられた。その中に学海に宛てた兄からの手紙もあって、その中で養父三浦氏の死を告げていた。俄かに病気になり正月廿四日に死んだということだった。驚いた学海先生がその旨を弘庵翁に報告すると、翁は、
「急なこととてお前としても如何ともしがたかったな。ともあれ養父が亡くなれば養子として喪に服さねばなるまいて。すぐに戻って葬儀の礼を尽くせ」と言った。
「そうではありますが、千里を離れた地にあっては、いますぐ駆け付けるというわけにはまいりませんし、それに私がいなくなっては先生のお世話にも差し支えがありましょう」
 学海先生はそう答えたのだったが、そこには折角千里の道のりを京阪まではるばるやって来たのだから、もう少し滞在していたいという本音も交じっていた。それに対して弘庵翁は、
「わしの世話なら公平が見る。お前はすぐにも養父の家に行け。とにかくそれが礼儀というものじゃ。君子たらんとする者何をおいても礼儀を重んぜねばならぬ」と言って、学海先生を急き立てるのであった。いかにも儒者らしい考え方である。
 結局学海先生は弘庵翁の言いつけに従って江戸に帰る決意をした。公平にそのことを話すと、公平は半ばは驚きながらも輿丁や関引の手配などを取り計らってくれた。関引というのは通行手形発行のことである。
 こうして先生は二月八日の夕、淀川の河津から船に乗って京都に向かった。河津で船に乗る際に先生は、
「昨は遊びを為して来たり、今は変を聞きて去る、三日の間悲歓頓に変ず、嘆ずべきなり」と言って慨嘆したのであった。
 京阪への先生の未練が伺える句である。
 復路は往路を踏襲した。江戸に着いたのは三月二日、実に二十五日を費やしているが、それは岡崎宿で病床に臥せったり、中泉宿で林氏の家に滞留したためである。林氏には弟子の病気を気遣った弘庵翁が世話を依頼してくれたのであった。その師弟愛や知るべきである。
 学海先生は江戸へ着いた三日後には再び旅支度をして、三月六日に熊谷の三浦氏を訪ねた。先生は三浦氏との間に養子縁組の約束をしていたとはいえ、まだ正式な手続きはしていなかった。肝心の養父が亡くなってしまったいま、その手続きをどうするかが大きな問題として迫っていた。場合によってはこの際正式に三浦氏の養子に納まり、そのまま熊谷に滞留するつもりもあった。それは相手次第だろうと先生は踏んでいた。
 養父本人は亡くなってしまったとはいえ、その妻や娘で自分にとっては養母、義姉にあたる人とかその係累やらが控えている。それらの人たちと話をしなければなるまい。養父が生きていればみな養父がやってくれただろうことを、今は自分の手でしなければならない。先生にとっては憂鬱極まることであった。
 熊谷の三浦氏の家では養母、義姉はじめ親戚一同から歓迎を受けた。先生は養父の位牌を拝し遺族一同にお悔やみの言葉を述べた。養子として養父を失った悲しみを、涙を流しながら披露した。先生にはそのくらいの芝居気はあったのである。
 翌々日は養父の墓参りをし、また親戚や隣人の家を歩き回って葬儀の際の労について謝した。まだ正式に養子になったわけではないので、挨拶回りは夜に行った。それがこの地の風習だということだった。
 また義姉の夫樋口渓斎を行田のその家に訪ねた。どうやらこの人物が養子縁組の手続きをなす際のキーパーソンのように思われたのであった。学海先生の見るところ、この人物は多少書を解するものの、風流を自ら誇り言語倨傲にして共に語るに値せぬように思われた。渓斎の母親も弟もいかにも田舎者といった感じであった。遠藤取庵なるものが同席していたが、これが渓斎に増して不遜であった。学海先生は彼らに接してうんざりさせられてしまったのだった。
 ついても先生は、このままこの家の養子となって納まれば、こういう俗物たちと始終鼻を突き合わせていなければならぬ。それは自分にとっては耐えがたいことだ。どうしたらよいものだろう。養子の話を清算してこのまま去ったのがよいのか、それとも養子となって田野に埋もれるのか。それはつらいことだ。というわけで先生はつくづく思い悩むのだった。
「若し屈辱恥を忍ばば、即ち遂に老いて田野卑辱の徒に死せん。是を以て思慮雑蹂し、殆ど煎らるる若し。嗚呼、予、俗人・姦夫の言に迷ひて是を致す。亦誰をか恨まんや、又誰をか恨まんや」
 先生はその場で自分の将来を決定することなく、とりあえずペンディングの状態のまま三浦氏を辞した。その後三浦氏からは樋口渓斎を通じてコンタクトがあったが、話は一向に進まなかった。どうやら三浦氏の方では、学海先生を養子に迎えることに消極的になっているらしい。学海先生の方でもこんな田舎者たちに囲まれて暮らすことに気乗りがしないのであった。そんなことでこの話は自然と立ち消えとなってしまったのである。こうだとわかっていたら別に打つ手もあったかもしれない。しかしとかく意に任せないのが人生というものだと割り切るほかはない。先生はそう思ったのであった。
 
 江戸に戻ると先生はとりあえず佐倉藩紀国橋邸の兄の家に寄寓した。兄は先日、広尾の下屋敷から紀国橋の藩邸に移っていたのだった。この当時の先生は駒井甲斐守の屋敷を出て定宿と言えるものを持たなかった。ありていに言えば住所不定だったのである。そこで兄の家とか友人の家とか或いは下谷の彀塾を転々としていた。その挙句、弘庵夫人に頼み込んでしばらく彀塾に置いてもらうこととした。弘庵先生自身はまだ当分関西に滞留するつもりのようであった。四月二十三日に公平から手紙が来たが、それは丁度一か月前に出されたものであった。おそらく最も安価な飛脚便に依頼したのだろう。
 この当時の飛脚便はかなり発達していて、金さえはずめば数日以内に京都と江戸を結ぶことができた。そのシステムは、駅ごとに飛脚を交代させ、全速力で走らせるというものである。今日の駅伝と同じ原理なわけで、襷のかわりに手紙を入れた袋をつなぎながら走ったのである。日本に駅伝というユニークなスポーツが発達したわけは、こうした歴史的な背景が働いているためである。
 彀塾に寓したその日、下総水海道から川田毅卿がやって来た。毅卿は弘庵門の同門で学海先生より四歳年長であるが、互いに気があい刎頸の友として交わっていた。学海先生にとっては生涯の友となった人である。この頃毅卿には士官話がいつくか持ち上がっていて、その話の中から備中松山藩への仕官を選んだ。備中松山藩には高名な儒者山田方谷がいるので、その薫陶を受けられることに魅力を感じた毅卿は、禄高が少ないにもかかわらずそこを選んだのだった。
 この日は、学海先生と川田毅卿との間にそんな士官話も出たことだろうと思われる。備中松山藩に仕官したとは言っても、国元に行くわけではなく、江戸の藩邸を根拠として藩士の指導をするというのが毅卿に期待された役割だった。だから今後は江戸で暮らすこととなる。ついては同門の仲間たちともしょっちゅう会うことができる、というような話に花が咲いたのではないか。
 江戸に戻った学海先生は相変わらず遊び歩いた様子が日録から伝わってくる。遊行先は旗亭や廓とばかりは限らなかった。時には純粋な社会見物もした。たとえば四月十八日には同輩の上田君煕を誘って深川の洲崎を見物している。その時の様子は日録に次のように記されている。
「午餐終はりて乃ち出で、大橋・深川を経て洲崎に抵る。弁天祠は洲の嘴に在り。災後稍修理を加ふ。鉦鼓喧噪たり。時に会風多し。故に賽者頗る稀なり。祠を出づれば即ち海浜なり。潮退くこと数十里、遥かに漁人を望むに蟻衆の如く、甚だ奇観なり」
 深川の洲崎は明治時代以降は東京有数の遊廓地帯になったところだが、この時代にはまだ海浜に面した寒村で、眼前には数十里にわたり砂浜が広がっていたことは、広重の浮世絵からも知られる。洲崎自体には享楽の気配はないが、すぐ近くには成田不動前の遊廓街が吉原と繁栄を競い合っていた。その吉原を北廓と言い深川を辰巳と言って江戸の花ともてはやされたことは端唄の深川節からもうかがえる。
 学海先生はまた広尾や麻布の藩邸にもよく顔を出し、佐倉藩が当時得意としていた鉄砲の訓練にも参加した。その時の様子を記した記事が日録にある。
「操練を備ふるを笄橋邸に観る。江戸邸の兵と佐倉の兵と合せて三百余人、隊伍斉整、進退意の任にし、すこぶる壮観なり」
 この当時藩士の武器に鉄砲を加えるのは全国的な流行とも言えるものになりつつあったが、なかでも佐倉藩は最も先進的であった。藩独自に鉄砲鍛冶を抱えていたくらいだから、なまじなものではなかった。そうした鉄砲鍛冶の末裔が小生の子ども時代にはまだ店を出していて、金物を商うついでに猟銃を扱ってもいた。小生が子供の頃の佐倉にはまだ猟をする人が多かったのである。
 なお弘庵翁が江戸に戻ってきたのはこの年の夏のことであった。




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