学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十一


 安政四年の日録は五月で中断し翌五年正月に再開された。その冒頭の記事は次の如くである。
「晴。正服して今上皇帝陛下・大将軍殿下・吾が侍従公閣下を拝す。毅堂公、雑煮餅を贈らる。三椀を食せり。愛宕山に上りて日の出づるを観、次いで神明祠及び毘沙門祠を拝して還る」
 文中今上皇帝陛下とあるのは孝明天皇、大将軍殿下とあるのは十三代将軍徳川家定、侍従公とあるのは主君佐倉藩主堀田正睦のこと。天皇を皇帝と称し将軍より上位に置いているのは師藤森弘庵翁の勤皇思想の感化をうけている表れであろうか。もっとも学海先生が心底からの勤皇家だったどうかについては、大いにあやうげなところがあるのだが。
 毅堂公とあるのは旗本小出秀美のことである。小出秀美は後に函館奉行、外国奉行を歴任し、ロシアに出張して樺太問題を交渉したりと、幕末史に名を刻んだ人である。学海先生とは同年齢で、この当時はまだ重職にはついていなかった。その小出秀美が先生を客分として自分の屋敷に住まわせていた。先生は駒井甲斐守の屋敷から出た後一時弘庵翁の彀塾に寄寓していたが、小出秀美に招かれてその屋敷に住むことになったのである。きっかけは弘庵翁が作ったのだろう。学問の友として誰か相応しいものを紹介して欲しいと請われ学海先生を紹介したのだと思われる。
 小出の屋敷は麻布の飯倉にあった。佐倉藩の上屋敷とは目と鼻の先である。学海先生はその敷地内にある小さな家を宛がわれて住んでいた。そして時折小出秀美のために講義をしたり談論の相手をしていた。
 この年の一月、佐倉藩主の堀田正睦が京都に旅することになった。幕命を受けて朝廷に使いするのが目的である。幕府はアメリカとの間で日米通商条約の交渉をしていたが、その成案がまとまったので条約批准の勅許を求めるために老中の正睦を派遣したわけなのであった。この旅には学海先生の兄依田貞幹も随従した。
 京都への出発に先立って先生は兄を訪ね、重職についたことにお祝いの言葉を述べるとともに重責を担ったことに対して慰労の意を表した。学海先生にはまだ国家の政治のことはよく飲め込めないところがあったが、今回の任務に並々ならぬ難しさがあることは気づいていた。幕府が折角老中を派遣してもその効果についてはわからないことが多い。先生にとってもっとわからないことは、いままで幕府が専権で行ってきた政治をなぜ皇室に伺いをたてねば進まぬほどに変わってしまったかということだった。
「これまでなら徳川様が専権で行っていたものが、この頃ではそれでは進まなくなり、いちいち皇室に伺いを立てなければならなくなりました。これは幕府の権威が失墜したということなのでしょうか?」
 そう学海先生が兄に聞きただすと、兄の貞幹は、
「平和で安定した世の中なら幕府の専権で事が済んだものだが、今や我が国は大きな激動に直面して国をあげて艱難にあたらねばならぬ。今回の件についても、外国に対して広く開国することにつながる重大な問題だ。したがって国をあげて取組まねばならない。徳川だけで専権出来るものではないのじゃ」
「それにしても拙者の目には徳川の権威が失墜しているかのように映ります」
「それは考えすぎというものじゃ。また他人の前で無暗に言うことでもない。わしだからよいものの、他人に口外することは無用じゃ」
 兄定幹は学海にとっては父親のような存在だった。父親が早い時期に亡くなったので、兄が家を支え、弟の学海を育ててくれた。そんなわけで学海先生は兄を父親同然に思い、兄に向っては心を許して何でも話すことができた。その学海先生にとっては勤皇もさることながら日本の政治を実質的に動かすのは徳川幕府であり、その権威が揺らぐことは日本にとって望ましくない事態として受け取られたのである。
 堀田正睦は奔走も空しく幕命を果たせぬまま江戸に戻らざるを得なくされた。これには攘夷派の巨魁水戸の斉昭が暗躍したとも噂されたが、孝明天皇自身が強烈な攘夷論者であり、アメリカとの修好通商条約など思いもよらぬことだったのである。
 いわば手ぶらで追い返された形の正睦の一行は中山道を下って四月二十日に江戸に戻ってきた。学海先生はわざわざ板橋まで迎えに出た。主君正睦も兄の貞幹も無事でいるのを見てとりあえず安心した。
 兄は帰宅後も多忙を極め、なかなかゆっくりと話す機会がなかった。そこで京都での交渉の内容がいなかるものであったか、学海先生は兄の口から詳しく聞くことができなかった。そのかわりに兄は、帰途信州芦田駅で依田氏の本流という親戚と会ったことを話してくれた。依田氏の先祖が甲州の武田武士であったことは先にも述べた。その武田武士の勇猛な戦いぶりを記録した文書があるというので、学海先生はそれをむさぼり読んだ。それによれば依田氏の祖は応仁の頃から武門を以て活躍し、その後武田氏のために大いに尽くしたが、武田氏の滅亡に伴い一旦は没落した。だが家康によって武功を評価され家臣に加えられた、というようなことがわかった。先生は自分の祖先が勇猛な武士であったことにいまさらながら誇りを抱くことができた。二百五十年の平和に馴れたとはいえ、まだまだ武士としての気概は残っていたのである。
 正睦一行が帰府した三日後の四月二十三日、彦根藩主井伊直弼が大老に任命された。直弼は色々な意味で日本史を前へ押し出した人物である。その人物の登場は日本史が新しい局面に入ったことを意味していた。それに対して学海先生の反応は歴史の本流を見据えたものとは必ずしも言えなかったが、全く見当違いというわけでもなかった。直弼の登場について先生は次のように日録に記している。
「伝へ聞く、彦根侯大老に任ぜらると。蓋し大老の職は甚だ重くして、国家の大事に非ずんば任ぜず。米夷の事至難と為す。因りて是の命有りしならん。但彦根侯の才徳令望、未だ天下に聞こえず。其の職に副ふこと能はざるを恐るるのみ」
 学海先生のこの予想を超えて彦根侯井伊直弼は果敢な仕事ぶりを発揮した。その仕事ぶりには大きく分けて二つある。一つは将軍継嗣問題に直面して、一ツ橋慶喜を排斥して紀州の慶福を将軍に担ぎ出したこと。一つは日米修好通商条約を専断し、それに逆らう勢力を果敢に弾圧したことである。この弾圧が世に名高い安政の大獄である。
 将軍継嗣問題は、十三代将軍家定が七月六日に急死するとすぐに持ち上がった。幕府の幹部の間では有能の誉れが高かった一ツ橋慶喜を推す声が強かったが、井伊直弼は腕力を以てこれを抑え、一橋派の大名たちを失脚させたうえで、紀州の慶福を将軍につけた。十四代将軍家茂である。
 この継嗣問題に堀田正睦も巻き込まれた。正睦はもともと紀州派に同情的だったが、その後一橋派に接近した。それが直弼の逆鱗に触れたわけだ。六月二十三日に老中職を解任され帝鑑の間詰めに落とされた。幕府の重役から一介の平大名に降格されたわけである。
 この措置に家来である学海先生も憤った。井伊直弼の横暴を非難する一方で、その横暴に対して抗議する主君の勇気を讃えている。
 その四日後の六月二十七日、小出氏の家宰森畑某が先生のところにやってきて、次のように言った。
「和殿の住んでおられるこの家は接客用に転用することとあいなった。ついては別に用意するのでそちらに移っていただきたい」
 先生は何も言わず笑ってその申し出を受け入れた。主君が左遷されて立場が微妙になったので、その家臣の面倒を見ているのは都合が悪かろう、そのように判断して自分を厄介払いしようというのだろう。そう先生は直感したのだった。
 そんなわけだから小出氏の屋敷を辞すことにしたのである。辞した後はとりあえず彀塾に寄寓することとした。弘庵先生は彀塾の塾舎を大増築し、四十人以上を収容するほどになっていた。学海先生一人くらいはいつでも受け入れてくれたのである。こんなところにも当時の師弟関係が親子の関係に近かったことが伺われる。
 安政の大獄のほうは九月から始まった。将軍継嗣問題を落着させ、自分の意の通りになる家茂を将軍に据えて権力の基盤を整えた直弼は、自分に敵対する勢力の大弾圧に乗り出すのである。
 安政の大獄とほぼ並行して江戸ではコレラが大流行した。コレラは黒船が運んで来たと言われた。日本ではそれまで存在しない病気だったので、人々は大いに恐れ天変地異並みに不吉に受け止めた。日録にもその模様が記されている。その中に、
「都下の病死者益々多く、棺を担ぎて葬送するもの、日に数千人なり」というような記事もある。
 学海先生もひどい下痢にかかり、もしかしたらコレラにかかったのではないかと恐れた。
「発熱し、腹痼る。頗る流行病の恐れあり」
 幸い学海先生の症状は軽くて済んだ。しかしその恐怖は並々ではなかった。その恐怖を先生は七言古詩に託している。曰く、
  都門十日悪疫行  都門十日悪疫行く
  過処害人酷於兵  過ぐる処人を害すること兵よりも酷し
  四肢委地冷徹骨  四肢地に委して冷は骨に徹し
  双掌攫空血生瞳  双掌空を攫んで血瞳に生ず
  妻子豈遑為決別  妻子豈に決別を為すに遑あらんや
  蕩薬未下気既絶  蕩薬未だ下さざるに気既に絶ゆ
  魄魂縦然易喚散  魄魂は縦然喚散し易きも
  冤気定知長蘊結  冤気は定めて知る長へに蘊結するを
  或伝此疫自西洋  或は伝ふ此の疫は西洋よりすと
  遠渡氷海来東方  遠く氷海を渡って東方より来る
  ・・・
  新鬼今宵哭何処  新鬼今宵何れの処にか哭する
  凄雨蕭々鎖秋天  凄雨蕭々として秋天を鎖す
 杜甫の詩を思わせるような大袈裟ぶりである。それほど先生はこの疫病を恐れたというわけであろう。




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