学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十二


 安政五年の日記は九月に中断され、再開されるのは十か月後の安政六年七月である。この十か月の間には、学海先生にとって公私にわたり重要な意義を持つ出来事がいくつか起こった。それらは日録からは読み取れないので、ほかの資料をもとに再構成しなければならない。
 まず安政の大獄が吹き荒れたことだ。これは幕末の事件としては第一級のものであるが、単に歴史上の意義だけでなく学海先生にとって個人的な得失にもかかわる事態であった。師の藤森弘庵翁が大獄の網にかけられたからである。
 大獄の最初の被逮捕者は梅田雲浜だった。雲浜の容疑は、堀田正睦が幕府の大命を受けて日米修好通商条約の批准の勅許を朝廷に求めた際にそれを妨害したというものだった。雲浜は逮捕されたあと厳しい拷問を受け、それがもとで獄死した。雲浜獄死の情報は弘庵翁にもたらされ、学海先生も当然知らされた。先生はさぞ驚愕したに違いない。前年京阪に赴いた際、学海先生自身は会わなかったが、弘庵翁は雲浜と会って親しく意見の交換をしている。その雲浜が獄死したということは不吉なことの前触れだと思われたはずである。
 京阪で会った人物のうち頼三樹三郎も逮捕された。また梁川星巌は逮捕される直前にコレラで死んだと伝えられた。僧月性は大獄が始まる前に病死していた。要するに弘庵翁が京阪で親しく交わった人々の大部分が変死したり投獄されたりしたわけである。
 弘庵翁との交流はないが、橋本左内、吉田松陰といった尊攘派の志士たちも逮捕された。西郷隆盛が遠島の処分を受けたのも大獄の余波を浴びたものと考えられる。
 安政の大獄は尊攘派の学者や下級武士たちを標的にしたものだった。井伊直弼がこの大獄に手を着けたわけは、幕府の開国政策への反対意見を黙らせるためであった。その反対意見の担い手のうちの大物は水戸の徳川斉昭とか越前の松平慶永といった有力大名だった。彼ら大物大名と幕閣との間の権力闘争というのが大獄の本当の原因だったわけだ。そういう意味では反対派大名たちを宿敵と位置付けて弾圧するのが筋だったと思うのだが、弾圧の実際の対象は貧乏学者とか下級武士だった。だがそういう連中が日本の政治に大きな役割を果たすようになってきている。そう井伊直弼は踏んで、彼らを血祭りにあげたのだと思われる。
 貧乏学者を弾圧することで世論を一定の方向へ導くという企てはこの大獄が初めてではなく、すでに蛮社の獄の例があった。蛮社の獄では高野長英や渡辺崋山といった貧乏学者が弾圧されたほか多くの町人がひどい目にあわされたが、そのことによって一時的にもせよ幕政批判の声は聞かれなくなった。蛮社の獄を通じて、この国では政府を批判する者を多少締め上げればその声を黙らせることができる、ということを幕府は学んだのだと思われる。その学んだことを今回適用したというのが安政の大獄の偽らざる動機だったのではないか。
 大獄の進行を目の当たりにして、弘庵翁も学海先生も自分たちも無事ではすまないと覚悟したと思う。その予想通り弘庵先生に逮捕の手が伸びて来た。容疑は昨年京阪に旅した際梅田雲浜及び頼三樹三郎と通じて、反幕府運動に傾いたのではないかというものだった。弘庵翁自身にはそんな意志は毛頭なかった。自分は日本の防衛のためには国をあげて具えるのが重要だと思っているだけで、その際には朝廷のもとに日本国民が団結する必要がある、その団結に徳川氏も参加して国防に努めるべきだと考えているだけで、徳川幕府を倒そうなどという考えは微塵もない。もっともそんなことを弁明しても聞いてくれるような相手ではない。弘庵翁はただ黙々として縛につき、伝馬町の牢にぶち込まれたのであった。だが、官憲の追求は意外にも緩やかで、そのうち牢から釈放してくれ、自宅に謹慎して追って沙汰を待つようにと命じられた。
 安政の大獄が以上のような経緯をたどる間にも、江戸市中にはコレラが猖獗を極めた。この疫病によって数万人が死んだとも言われた。先生は日記のなかで
「聞く、近頃病に罹りて死せし者は十二万五百八十二人なりと」と書いている。
 数字がもっともらしい割にはこの記録には根拠がないと思われる。だが大勢の人間が死んだことには間違いなく、日本の疫病流行史上未曽有の事態というべきものであった。
 学海先生の一身にかかわる出来事として特筆すべきなのは、安政五年十二月に抜擢されて藩主正睦の中小姓になったことである。これにはちょっとしたいきさつがあった。
 正睦公が江戸城に控えていた時、旗本の川路聖謨と雑談をした。その雑談の合間に川路が学海先生のことを話題にあげた。
「殿のところには依田七郎という切れ者がいると聞いています。どんな人物でどんな役職につかれているのか聞かせてくれないでしょうか?」
「依田という姓の者は二人いて、そのうち依田貞幹というものを先般の朝廷への使いに同行させましたが、果たしてその者の係累でもありましょうかな。あとで詳しく調べさせましょう」
「それがしがその人物のことを聞いたのは旗本駒井甲斐守殿からですが、甲斐守殿のおっしゃるには学識にすぐれなかなか的確な目で天下を見ているとのことでしたよ」
 こう言われたが正睦公には依田七郎という名に思い当たることがなかった。実は依田七郎こと学海先生十五歳の時の藩校の卒業式に立ちあったことがあるのだが、そんなことは藩主の記憶にはない。川路聖謨といえば当時は切れ者の旗本として知られ、大名たちからも一目置かれていた。その人物が褒めるのであるから、依田七郎とやらは相当の者に違いない。正睦公はとりあえずそう思ったのであった。
 後で家老の平野知秋に聞いたところ、平野は依田七郎を子どもの頃からよく知っており、家柄や人柄、学識などについて詳しく奏上した。正睦公には開明的なところがあり、有為の人材を大事に考えていたので、依田七郎こと学海先生を自分の近くに置いて何かと役に立たせようと思った。そこで三十俵三人扶持の待遇で召し出したのであった。
 このことが学海先生にとって人生の大きな転機になったことは間違いない。武家の次男坊として生まれ部屋住みで通してきた先生にとっては、一人前の男子として身を立てる方策は他人の養子になるか藩の役職につく以外には殆ど残された道はなかった。養子縁組のことでは苦い目にあっているので、何とか藩の役職に抜擢して欲しい。日頃からそう思っていたところ、思いがけず好待遇で召し出されることとなった。先生としては天にも昇る気持ちだったに違いない。
 学海先生は本郷の藩邸の一角に部屋を宛がわれ、そこから麻布の上屋敷に通うこととなった。尤も毎日通うわけではないし、中小姓の職務のほかに色々やることもあった。いずれにしても先生としては充実した日々だったろう。半ば宿なしで定職も持たなかった身が一気に堅実な勤め人になったわけである。

 安政六年七月に始まる日記は以上のような事情を踏まえ、それの余韻に満ちている。なおこの巻から漢文に代えて和文で表記するようにした。先生の和文には多少の癖があって、特に送り仮名の表記に難が見られる。それは漢学者として己を形成し、専ら漢文を書いて和文を書くこと少なかったことの結果だと思われる。
 この巻の冒頭には京阪で接触した頼三樹三郎と梅田雲浜への言及が見られる。学海先生は梅田雲浜に会ったことはないが、その詩を通じて彼の人柄に多少の共感を覚えたようである。わざわざ雲浜の詩を日記の中に書きとどめている。その詩に曰く、
  妻臥病床児叫饑  妻は病床に臥し児は饑に叫ぶ
  丹心誓欲掃戎夷  丹心誓って戎夷を掃はんと欲す
  今朝死別更生別  今朝死別更に生別
  只有皇天皇土知  只皇天皇土の知る有り
 この詩からは戎夷(外国)への排外意識と天皇への忠誠心が強く伝わってくる。これが当時尊攘思想と呼ばれたものの平均的な構えだったわけである。
 橋本左内と吉田松陰が伝馬町の牢で斬首されたと聞いた時には、彼らの潔い死にざまに対して敬意を表している。特に吉田松陰については
「奉行死罪のよしを読きかせし後、畏まり候よし恭敷御答申して、常に庁に出る時に介添せる吏人に、ひさしく労をかけしよしを言葉やさしくのべ、さて死刑に臨みて鼻をかみ候はんとて、心しずかに用意してうたれけるとぞ。凡そ死刑に処せらるるもの是迄多しと雖も、かくまで従容たるは見ず」と書いて激賞している。
 一方弘庵翁に対しては自宅待機を命じられて以来特別のお達しはなかったが、十一月の末になってようやく処分が下った。思いのほか軽い処分で済んだ。江戸から追放するというものだった。命拾いをした形の弘庵翁は、下総行徳の係累を頼ってそこで謹慎することとした。先生はその旅立ちを見送ったが行徳まで同道することはしなかった。
 藩主の正睦公については、謹慎の末隠居が認められ、家督を嫡子の正倫に譲り、ご自身は八丁堀の藩邸に引き続き謹慎することとなった。それでも学海先生は麻布の上屋敷に通って藩務に従い続けたようである。十一月の下旬には本郷の藩邸に建っていた米倉を改造して自分の住居にしている。




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