学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十三


 日記は安政六年十一月で中断し、三年半後の文久三年三月に再開するが、同年十月以降またもや三年以上の長い中断をして慶応三年元旦に再開する。ということは安政六年十一月から慶応二年の末までの約七年間のうち六年以上がブランクということになる。学海先生の青年期のうち六年間の空白は、先生の史伝を書く者としては、たとえそれが小説であっても非常に大きな制約条件だ。小生はなんとかしてこの穴を埋めようと思い、色々と他の資料をあたってみたが、間隙を埋めるに足るものは見つけられなかった。そこで英策なら多少のことは知っているのではないかと思い、彼の助け船を得るために会って話を聞くことにした。
 それまでに書いた原稿の写しを参考までにと事前に送った上で、佐倉の宮小路の家に招いた。英策は昼頃やってきた。昼飯を食いながら話そうと思い、そば屋から出前を頼んだ。出前はすぐに来た。そこで八畳の座敷に据えたお膳を囲んで、我々はそばを肴にビールを飲みながら歓談した。
「送ってもらった原稿は読んだよ。まだほんの書き出しのようだからなんとも言えんが、どうも小説というより史伝とか伝記とかいうものを読んでいるような気がした。鴎外の史伝を思い出したよ。特に渋江抽斎を強く意識した。渋江抽斎には長い導入部分がついていて、そこで何故作者鴎外がこの史伝を書かなければならなかったか、その理由がくどくどしく書かれていたが、お前のこの作品もそれと同じようなことをしているな。ご丁寧に俺まで登場させられている」
「お前さんのことは悪くは書かなかったつもりだ」
「それはよいとして、あかりさんをあんな風に書いていいのか? 彼女が読んだら気を悪くするよ、きっと」
「まだ作業途中だからいくらでも書き直しはきくさ。それより先日も言ったが、安政六年から慶応二年にかけて六年間もブランクがある。こんなにブランクが長くては、簡単には埋められない。そこで外の資料を色々あたって見たんだが、ブランクを埋めるに足るようなものは見つからなかった。そこでお前さんなら多少は埋めてくれんじゃないかと思って、聞いてみたいつもりで声をかけたというわけなんだ」
「そう言われてもな。俺だってお前以上に知っているわけじゃないんだ。とにかく依田学海については学者の研究成果も殆どないし、資料と言えば本人が書いた日記と随筆類が唯一の手がかりだ。その随筆の中には若い頃のことに触れているものもあるが、それも断片的でしかない。その断片的な資料を根気よくつなぎ合わせるしか方法はないね。そうすれば例えば文久元年に佐倉藩士の娘と結婚したというような事実が浮かび上がってくる」
 そう言って英策は学会先生が若い頃のことに触れている随筆類をいくつかあげてくれたが、その殆どは小生が既に知っているものであった。
 つまりこの六年間のブランクを埋めるような資料はほとんど無いに等しいということが改めてわかっただけなのであった。
 ビールをもう一本飲もうと思って台所の冷蔵庫まで取りに行き、八畳間に戻ってくると、縁側の端に学会先生がこの前と全く同じ服装でちょこんと座っているのが見えた。小生は思わず、
「先生!」と叫びそうになった。
 小生の様子が変わって見えたのだろう。英策は不審そうな顔つきで
「どうしたんだ、なにか変わったことがあったのか?」と言った。
 小生には見えている学海先生の姿が英策には見えていないようなのだ。
「いや、縁側の先にイタチが見えたような気がしたんだ」と言って小生はその場を取り繕った。
「この家には昔からイタチが住み着いていてね。お袋が生きていた頃はよくイタチに鶏を襲われたと言ってこぼしていたよ」
「へえ、ここにはイタチがいるのか。最上町の方ではイタチがいるなどという話は聞いたことがないがな」
「イタチだけじゃない。大きな青大将もいる。屋根裏に住んでいて時々下に這い出てくる。気味が悪いとお袋は言っていたが、ネズミをとってくれるので重宝しているのさ。猫より青大将のほうがはるかに有能なハンターだからな」
 その日は梅雨の合間の雨もよいの日で朝から空が曇っていたが、その雨がいまにも降ってきそうな雲行きになってきたので、英策はビールの残りを飲み終えるとそそくさと去って行った。
 英策が去ってしまうのを見届けると、学海先生は小生の方に顔を向けて語りかけてきた。
「ワシをイタチと一緒くたにするとは、オヌシも人が悪いな」
「申し訳ありません。とっさに思い浮かんだので、他意はありません」
「まあ、よい。今のが小出英策かね?」
「そうです。あの男は私とは違って堀田家譜代の家臣の子孫です」
「その姓なら聞き覚えがある。ところでワシについての史伝体小説なるものは順調にはかどっているかね?」
「安政六年頃まで書き進みました。その年に安政の大獄があって先生の師匠である藤森弘庵翁が江戸追放に処せられるところまでは書いたのですが、その先がなかなかうまく書けません。というのも先生の日記はその年から慶應二年いっぱいまでのおよそ七年間、途中文久三年の数か月間を除いては空白になっているからです。そこでその空白を埋めようと思って色々資料を当たってみたのですが、なかなか埋まりません。先程までここにいた小出栄策にも声をかけてみたのですが、あの男も私以上に知っているわけではない。というわけでほとほと困っているところでした。幸い先生とこうしてお会いできましたので、先生の口から直接その空白期間についてのお話を伺いたい」
「ワシもそんなには覚えておらぬ。なにしろ百年以上も前のことじゃからな」
「しかし先生は我々この世の人間とは違うわけですから、時間感覚もまた違うのではないですか? 我々この世の人間は百年以上は生きられないわけですから、百年以上も前のことを覚えていられるはずがない。しかし先生はあの世でこの百年余りを生きて来られた。あの世の時間の流れは自づからこの世の時間の流れとは違うのではないでしょうか? ともあれ先生が覚えておられる限りのことでいいのです。とにかくその覚えておられることを私にお話し願いたい」
「そう言われてもなあ。きっかけがないとなかなか思い出せぬものじゃ」
「じゃあ、私のほうからきっかけを作ってさしあげましょう。いま安政の大獄のことについて言いましたが、この日記が中断した翌年の安政七年には井伊直弼が桜田門外で水戸の浪士に襲われて首を取られるという事件が起こりました。その事件を先生はどのように受け取られましたか?」
「ちょっと待ちなさい。いま思い出してみるから」
 そう言って先生は縁側の上に立ち上がり、小生のいる八畳間に入って来ると、お膳の裾に小生に向き合うようにして座った。
「そうじゃな、井伊直弼が殺されたと聞いたときは、ワシはざまあみろという気持を抱いたことを覚えておる。なにしろ井伊直弼は我が主君堀田正睦公の仇敵であるし、我が師弘庵先生を陥れた黒幕であるからして、ワシは井伊に対する憎しみを抱いていたからの。それが首を取られたと聞いたときは、天誅が加えられたと思ったものじゃ。もっとも井伊の首をとったのは天そのものではなく、水戸の天狗党だということじゃった。天狗党とはよく言ったものじゃ。この天狗党の十数人と薩摩の浪人一人とが四十人以上もの井伊の行列に襲い掛かり、あっけなく井伊の首をとった。首を取ったのは水戸の侍ではなく薩摩の有村という浪人じゃったそうじゃが、この事件を契機にして水戸侍の株が上がったものじゃ。それだけじゃない。井伊が殺されたことで幕府の権力構造に変化が起きるし、開国派の井伊がいなくなったことで全国の攘夷派が勢いづいた。それが維新の大変革へとつながっていくわけじゃ。その意味ではこの事件は国の行方を変えるほどの大きな出来事じゃった」
「水戸の天狗党は翌々年の正月にも要人の襲撃事件を起こしましたね。俗に言う坂下門外の変というやつです」
「ああ、老中の安倍信正を天狗党の侍六人が襲った事件じゃろ。この襲撃では目的の安倍を殺せぬばかりか天狗党が切り伏せられたが、幕府に打撃を与えることには成功した。徳川幕府はそれまで要人が次々と襲われるようなこと、つまり今でいうテロじゃな、そのテロで次々と要人が倒れるというような経験がなかった。それだけに、この一連の事件はこたえたに違いない」
「今の言葉でボディーブローというのがありますが、まさにそれだったわけですね。ボディーブローというのは、殴り合いで相手の腹を打つことで相手の体力を消耗させるものです。即効ではなく漸次的に相手を消耗させて倒すことです。それと同じように徳川幕府も度重なるテロで体力を消耗したとは言えます。ところでその天狗党ですが、先生の師匠藤森弘庵翁は水戸の斉昭公に著書芻言を献上しています。弘庵翁ご自身は水戸学に親しんでいたのだと思うのですが、先生もやはり水戸学とか天狗党には親しみを抱いておられたのでしょうか?」
「それをまともに話すと長くなるので、ごくかいつまんで話してやろう」
 こんな具合に学海先生は小生の問いかけに応じて、日記の空白を埋めるに足るような話をぼちぼちしてくれるのだった。




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