学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その五十七


 英策と成田山に初詣をし、宮小路の家で学海先生と話した日の数日後、小生はあかりさんとともに明治神宮に初詣をした。初詣をするとしたらどこがよいか彼女に聞いたら、彼女が明治神宮を指定したのだった。
「あなたはいま明治維新をテーマに小説を書いているわけだから、明治神宮にお参りするのがいいんじゃない?」とあかりさんは言うのだった。
「明治神宮なら外苑の絵画館も近いね。そこにも行ってみようか」
「そうね、わたし絵画館は外から建物を見るだけでまだ入ったことないから、ちょうどいいわ。中にも入ってみましょうよ」
 こういうわけで我々は、休日の午前十時頃、御茶ノ水駅近くの、線路を背後にした喫茶店で待ち合わせをした。小生が先についてブラックコーヒーを飲んでいると、あかりさんは臙脂色のジャケットに黒いチノパンツをはいて現れた。彼女としてはラフなスタイルである。そこで彼女が席に座るのを見届けて、
「今日は随分ラフなスタイルだね」と呼びかけると、
「どお、似合う?」と合わせてきた。
「とても似合うよ。君は体つきが女性としてはがっしりしているから、そういうスタイルが地について見える」
「褒められてるんだか、けなされているんだかわからないけど、まあ、いいわ。今日は休暇を楽しもうと思ってこんな格好を選んだのよ」
「京都に行ったときのトレンチコートとブレザーの組み合わせもよかったけど、今日のコーディネーションもなかなかいいよ。えんじ色のジャケットの下にベージュ色のセーターなんて、なかなかシックでもあるし」
「まあ、きょうは随分お世辞がうまいのね」
「何を飲む?」
「いつものとおりのやつ」
 そう言われて小生は、ウェイトレスを呼んでミルク・ティーを注文した。暖かいのにしてください、と付け加えながら。
 喫茶店を出ると総武線の電車に乗り、代々木駅で山手線に乗り換えて、原宿駅で降りた。
 駅から本殿に向かう参道は参詣する人々であふれていた。いつもはひっそりと静まりかえっている森の中の道が、この日はまるで祝日の観光地のように賑わっている。それを見て小生は、日本人というのは宗教とお祭り騒ぎとの間にあまり区別を感じない民族なのだなと思った。まして明治神宮は明治天皇を祭ったところだ。その明治天皇を一体どれほどの日本人が神と受け取っているだろうか。おそらくいまここを歩いている大勢の人々のほとんどは、明治天皇を神とは思っていないだろう。にもかかわらず、神を祭っているこの神社にこのように大挙して押しかけてくる。一体これはどういうことなのだろう。そんなことをちらりとながら思いつつ、本殿に参拝したのだった。
 参拝後御苑を散策した。ここは明治神宮内苑のなかでも他から隔絶された空間で、人の姿もちらほらとしか見なかった。心字池の周りを歩みながら、この森閑と静まりかえった空間が、東京の中心部にあることが不思議に感じられた。
 暖かい季節には菖蒲を始めさまざまな花が季節ごとに咲くと言うが、冬の盛りの今は枯山水のような眺めが広がっているだけだ。
「京都のお寺の庭はすてきだったけれど、ここの庭園もなかなかいいわね」とあかりさんが言った。
「ごたごた飾らないところがいい。自然の美しさをそのまま生かしている」
「新宿御苑に比べてどうかしら?」
「新宿御苑は人工的過ぎるところがある。それに和式と洋式が混在したりしていて、庭園としてのコンセプトがいい加減だ」
「どうしてそうなんでしょう?」
「役人が設計したからだろう。役人が設計するとろくなものは作らないから」
「役人のあなたが言うのなら、間違いは無いわね」
「役人と言っても僕の場合には木っ端役人だけどね」
 我々は神宮の森を出て、原宿駅傍らから表参道の坂を下り、その途中にあるイタリアレストランに入って食事をした。二人ともイカスミのスパゲッティを注文した。なかなかうまかった。だが、食べたあとに口の周りが黒くなってしまった。お互いその黒くなった口のあたりを見比べて笑い合った。
「イカスミは消化しないと言うから、明日の便は黒いのが出てくると思うよ」
 小生がこう言うと、あかりさんはふくれたような顔つきをして、
「下品なことは言わないで。折角のお食事の雰囲気が台無しになるじゃない」
「にわか小説家気取りにもなると、こんなことを平気で考えたり言ったりするようになるのさ」
「それは屁理屈よ。下品さが小説家の条件とは言えないわ。もっと上品に振る舞いなさいよ」
 食後我々は表参道の坂道を更に下って明治通りとの交差点を左に曲がり、東郷神社の境内に立ち寄ったりして、神宮外苑方向を目指して歩いて行った。やがて外苑西通りに着くと、左手に東京体育館のメインアリーナの建物が見えた。
「僕があの体育館にいたことはいつか話したよね?」
「ええ、楽しかったって言ってたわね」
「うん、実に楽しかった。毎日がお祭り騒ぎのようだったからね。一度ファッションショーをやったことがあってね、その時にはアマゾネスのような巨大な女性モデルが大勢来てね、その女性たちが着付けをするところが見えるんだけど、みな人前で真っ裸になるのが平気なんだな。うちの男連中はその裸を見てすっかり興奮してしまってね、仕事をほっぽり投げて見とれていたものさ」
「あなたもその見とれていた一人なの?」
「まさか」
 外苑西通りを渡って神宮外苑に入り、国立競技場の脇を抜けて絵画館前に立った。噴水越しに絵画館の建物が見える。絵になる眺めだ。だが建物は横に低く広がっているので、これを絵にするには、構図を工夫しなければなるまい。そんなことを考えつつ、小生はあかりさんの手を握りながら館内に入った。館内には明治天皇の足跡を描いた絵がたくさん掲げられていた。その絵を見ると、これは神を描いたというよりは、偉大な政治指導者を描いたという感じが伝わってきた。日本では偉大な政治指導者が神として祭られるのは珍しいことではないから、別におかしなことではないのだが。
「どお、あなたの明治維新のイメージに何か役立つものを感じた?」
「あまり感じなかった。それに学海先生は明治天皇個人にはあまりこだわっていないしね」
「でも明治天皇は明治時代を象徴する存在なわけだし、明治維新も明治天皇とは切り離して考えられないんでしょ?」
「それはそうだけれど、学海先生の場合には、明治維新は明治天皇の所行ではなく、薩長が徳川を倒して権力を握ったクーデターのようなものとして映っていたようなんだ。だから学海先生にとっては、明治天皇が表に立つことはないんだ。明治天皇が表舞台に出てくるのは、儀式的な存在としてだよ。まあ、学海先生にとっては、明治天皇は薩長の藩閥勢力が権力を私するための手段・名目として使われたと映っているようなんだ。長州人は天皇を玉と言ったけれど、学海先生もその認識をある意味共有したいたわけなんだな」
「ふうむ」 
 そんな会話をしながら神宮外苑の銀杏並木を歩いた。銀杏は季節柄ことごとく葉を落としていた。その裸になった銀杏並木越しに絵画館の方向を振り返ると、絵画館の建物のシルエットがくっきりと浮かび上がって見えた。もし絵画館を絵に描くのなら今の季節、つまり冬が良いと小生は思った。
「これで一応今日の予定はこなしたけど、これからどうする?」
「うちに帰るわ」
「まだ時間は十分あるよ」
「近頃うちのが私の動向に敏感になっているのよ。どうも疑っているらしいの。娘がわたしのことを疑っているのは、この前話したとおりだわ。そんなわけで最近どうも家のなかが変な雰囲気なのよ。だから当分は気をつけなければと思っているの。そんなわけで夜遅くまでは遊んでいられない」
「娘はともかく、ご主人は妻の君をかなり疑っているのかい?」
「だいぶ疑っているみたい」
「どんなふうに?」
「とにかく機嫌が悪いのよ。面と向かってずばりとは言わないけど、その様子からわたしの浮気を疑っているらしいことは伝わってくる」
「今後どうなりそう?」
「わからないわ。いっそあなたと一緒に逃げてしまおうかしら。そしたら一緒に逃げてくれる?」
 そう言われて小生は返事に困ったが、何も言わないわけにはいかないので、
「君がその気なら考えてもよい」と答えた。
 しかしこの日も彼女はそれ以上この問題にこだわることをやめた。小生もそれに触れることを避けた。
 そういうわけでこの日はホテルに誘うこともやめた。あかりさんがこんな状態だし、また先日の学海先生の言葉も頭に引っかかっていた。もし今日もホテルに誘ったならば、裸で抱き合っているところを先生に見られるのはほぼ避けがたいように思われた。それを思うとどうも、あかりさんと裸で抱き合うのがためらわれるのであった。
 我々は表参道の入り口付近の喫茶店に入ってハーブティーを飲み、青山一丁目から地下鉄に乗り込んで千葉方面へ向かい、小岩駅で別れた。




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