学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その五十八


 明治五年の正月を学海先生はほとんど浪人の身で迎えた。仕事が全くなかったというわけではないのだが、正規の職業を持たなかったのだ。前年の暮、印旛県令になった河瀬修治から西村茂樹共々県への士官を勧められ、いったんは心が動いたが、結局それを断った。その後西村はじめ佐倉藩士の多くが臨時の印旛県庁が置かれた行徳に移り住んだが、学海先生は佐倉にとどまって、藩務の残務整理を続ける一方、旧藩士たちの授産事業を手がけていた。この授産事業は廃藩後に藩士たちやその家族が路頭に迷わぬようにと、旧藩主正倫公が出してくれた資金をもとに始めたもので、当初は西村茂樹が中心に運営していたが、西村が印旛県庁に行くに伴って、学海先生にその運営を託されたのであった。その仕事は無報酬であるから正規の職業とは言えなかったわけである。
 授産事業の運営主体は相済会社と言って、主に二つの事業を手がけていた。一つは酪農業であって、これは西洋から輸入した乳牛数十頭を四街道栗山の牧場で飼育し、乳製品を生産販売して利益を上げることを目的としていた。もう一つは製靴業で、これは西洋から靴の機械を輸入して洋靴を生産・販売しようというものだった。両事業とも軌道に乗れば、国内に競争相手も見当たらぬ事から、かなりの利益を見込むことができた。
 士族の授産を目的とした事業は、その後別の地域でも広がるのだが、それは廃藩後かなり経ってからのことである。それらに比較すれば、旧佐倉藩の授産事業は先駆的なものと言えた。こうした授産事業の多くが武士の商法と言われて挫折したことは周知のことである。佐倉藩がそれと同じ命運を取らずにすんだかどうか。それはもう少し見守ってからでないと、断言できない。だがこの年正月中の学海先生の日記には、靴の材料となる皮の代金が巨額に上るに対して、売り上げが全くないと嘆いているところを見ると、前途多難な様子は早くも伝わってくる。
 また、これは余談になるが、牧場の牧畜指導者は竹柴保次郎と言って、この男は榎本武揚に従って函館の五稜郭に立てこもり、政府軍を相手に戦ったという経歴の持ち主だった。学海先生はその男から、面識のある土方歳三のことを聞いた。土方は体は小さかったが肝は大きく、恐れを知らぬ硬骨漢であった。小を以て大を破ることたびたび、敵に背後を襲われても慌てることなく、前の敵を破りその勢いで背後の敵に向かうべし、これ背にあらずして前面なりと言って、味方勢を励まし続けた。だが、多勢に無勢では如何ともしがたく、腹に銃弾を受けて戦死したそうである。それを聞いて学海先生は、土方歳三の勇気にあらためて感じ入ったのであった。
 二月の上旬に兵部省の役人がやってきて佐倉城の敷地を視察した。学海先生もそれに立ち会った。兵部省の役人が言うには、東京鎮台所属の兵一大隊をこの地に駐屯せしめたいという。全国各藩の城とその用地は、新政府に無償収用され、大蔵省と兵部省とに分割移管された。兵部省の所管になった城地は軍事施設のための用地として使われることになっていた。佐倉城もまた軍事用地になることとなったのである。その後、この土地には第一師団の第二連隊が駐屯し、第二連隊が水戸に移転した後には第五十七連隊が駐屯することとなる。したがって維新直後から先の大戦での敗北に至るまで、旧佐倉城地は日本の軍事拠点としての役割を果たし続けたわけである。
 三月早々西村茂樹が印旛県を辞職して佐倉に戻って来た。これに先立ち吉見明をはじめ多数の旧藩士が印旛県をくびになって佐倉に戻って来ていた。吉見などは県令に取り入って印旛県庁に採用されたのであったが、またそのことで県令河瀬には歯の浮くようなおべっかを使っていたものだったが、いったんくびになるや河瀬を口汚く罵った。その様を見た学海先生は、日ごろ吉見のことを苦々しく思っていたこともあり、軽蔑の念しか覚えなかった。いずれ厄介払いをされることになるなら、始めから自分のように潔くすべきなのだ。
 学海先生は西村茂樹を訪ねて、印旛県をやめた事情などを聴きたいと思った。
「ワシが印旛県令の誘いに応じて印旛県に出仕したのは、佐倉藩士として藩の最期を潔く見届けたいと思ったからじゃ。もはやその最期を見たうえでは、これ以上印旛県に留まる理由はない」
「先般は兵部省の役人ばらがやってきて、城を兵の駐屯地たらしめんと申しておりました。城を取られたうえは、もはや佐倉藩も旗印を失ったようなものですな。さびしい限りではあります。で、どうでした、河瀬県令の貴殿に対する処遇は?」
「ワシは単に利用されただけじゃ。処遇もなにもない」
「利用価値がなくなれば、置いておく価値もないということですか?」
「いや、ワシは相手から辞めさせられたわけではない。自分から辞職したのじゃ。あの河瀬と言う男は食わせ物じゃった。表面ではものわかりの好さを装っているが、腹の中では何を考えているかわからぬ。ワシはそういう裏表のある男と付き合うのはごめんじゃ」
「これからどうなさるおつもりか?」
「しばらく休養した後、東京に出て塾でも開き、西洋の学問を広めたいと思っておる」
「先日福沢諭吉が学問のすすめというものを出しましたが、そんな類のことをなさろうというわけですか?」
「福沢諭吉はワシもよく知っておる。物の考え方にワシと共通したところもある。よって東京へ出たら福沢の協力ももらって、有意義な活動をしてみるつもりじゃ」
「拙者は西洋の学問のことはとんとわからず、福沢の言っていることにも共感いたしかねるところが多々あります」
「オヌシは漢学一辺倒じゃったからな。ワシはかねて西洋学問も学んでおった。これからは西洋学問が大きな働きをするようになるじゃろう。ワシは福沢共々その道を切り開いていきたいと思っておる。印旛県庁などにくすぶってはおれぬ」
「拙者も機会があれば西洋に留学したいと思ったことはあったのですが、なにせその機会がありませんでした。それ故今さら西洋学問を本格的に学ぶこともありますまい。ともあれ貴殿はこんなところにくすぶっている人材ではござらぬ。国家のためにも広く活躍されるべきです」
「いや、どうもありがとう」
 四月の中頃、摩賀多神社の境内に巨大な水槽を作り、そこに伊豆の温泉から買い来った湯をたたえて入浴せしむる者が現れた。なんでも病気療養に資するということである。学海先生にはさせる持病はなかったが、気晴らしになるだろうと思って浸かってみた。湯は硫黄に塩気の交じったもので、舐めると塩辛かった。
 この水槽は小生が子どもの頃まで残っていて、普段は鯉などを泳がせていたが、或日水槽の水を抜いて新しい水に入れ替え、近所の子供たちを泳がせたことがあった。小生は金槌なのだが、狭い水槽なら溺れる心配はないだろうし、また溺れかかったら周りの大人たちに助けてもらえるだろと思って、水槽に飛び込んで犬かきをしたところが、水槽の底は意外と深く、小生は溺れてしまったのだった。幸い水に沈んだところを周りにいた大人が素早く見つけ、助け出してくれた。それ以来小生は水に入ることをますます嫌うようになってしまったものであった。
 相済会社の業績は相変わらず思わしくなかった。正月以来四か月の収支は、費用三千円余りに対して収入はその百分の一にも及ばなかった。最もあてにしていた牛乳の販売価格が非常に低いままだったし、靴にいたっては販路の目当てが全くつかないのだった。売れないものを作っても、それだけ赤字になるだけである。
 その隘路を打開するつもりであったか、学海先生は新たな事業に取り掛かった。紡績工場を作って衣料の生地を売ろうというのである。この事業のために先生は高価な機械を買い入れ、また女子を十六人紡子として採用した。当時の紡績は、人手で糸を紡ぎ出していたのである。これも果たして軌道に乗るものかどうか、保証はなかったのだが、とにかく何事も始めて見なければ始まらないというのが学海先生の哲学だったので、事業の拡大に果敢に挑んだ次第だった。
 そんなわけでこの頃の学海先生は相済会社の運営に忙殺された。無論あいかわらず無給のままである。学海先生には旧佐倉藩の幹部として、旧藩士の授産に強い使命感を持っており、その使命官が先生を駆り立てて、無償のまま事業の運営に携わらせたのである。
 戸籍制度の改正は前年に制度化されていたところだが、今年になってその実施に取り掛かった。その結果全国一律の戸籍が作られた。これを壬申戸籍と言う。日本で初めての全国共通戸籍である。この制度の施行に伴い、全国が大区小区に分割され、大区には区長、小区には戸長が置かれた。従来の名主・年寄は廃止された。また新しい戸籍制度に伴い、従来の通称・実名の併用が禁止され、すべての人について一人一名たるべしとされた。学海先生はこれを機会に自分の名を百川とすべく届け出を行った。
 そうこうしているうち、六月二十三日に細君が四番目の子を産んだ。女の子だった。この子を学海先生は珠君と名付けた。




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