学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十七


 この年は桜の咲くのが早かった。三月中に満開になった。そんな折、英策から電話がかかってきて一緒に花を見に行こうと誘われ、三月も末に近い頃宮小路の家で会った。英策は花見用だといって、途中で買ってきたという弁当を二人分ぶら提げていた。我々は家を出て肩を並べて歩き、城址公園の方向へ向かって歩いた。途中中学校の隣にある酒屋で缶ビールを買い求め、城址公園に着くと空堀の土手の芝生に腰を掛けて、満開の桜を見ながら缶ビールを飲み、弁当を食った。春爛漫といった雰囲気だった。
「去年もこうして桜を見たっけな」と英策が言った。
「ああ、去年は四月を過ぎていた。今年は随分と早い。我々が子どもの頃は、小学校の入学式に桜が満開になったものだが、近頃はこうして三月のうちに満開になってしまう。やはり地球規模で気候変動が起きている影響かね?」
「地球温暖化というやつか。困ったものだ。この調子だと地球は遠からずして蒸し風呂のようになってしまうと言うじゃないか」
「うむ、たしかに困ったことだ」
「だが、一本調子で暑くなるばかりかというと、そうでもないらしい」
「どういうことだ?」
「地球温暖化がある点以上に進むと、かえって地球が寒冷化に向かうという予測もあるんだ」
「へえ、面白い予測だね」
「お前は深層海流というのを知ってるか?」
「ああ、海の深い部分を流れている真水の層のことだろう?」
「うむ、その深層海流の真水は、北極圏から供給されている。北極圏の氷で冷やされた水が、海に流れ込んで深層海流になるわけだ。ところがその北極圏が地球温暖化によって暖められると、氷が解けて、冷たい真水ができなくなる。すると真水の供給が止まって深層海流も消滅する。その結果地球が急速に寒冷化するというわけなんだ」
「それはどういうメカニズムかね?」
「深層海流というのは、太陽の光を反射する作用をしている。この作用があるおかげで、太陽エネルギーが大気中に反射して大気の温度を上げているんだ。ところが深層海流が存在しないと、太陽からのエネルギーはそのまま遮られることなく海底深く吸収されてしまう。そうすると大気中に反射熱が供給されることがなくなり、大気が急速に冷却されてしまうというわけだ」
「それは面白い。地球温暖化が地球寒冷化に結び付くというわけか」
「自然というのはうまくできているのさ。しかし温暖化にしろ寒冷化にしろ、極端なのは困りものだ」
 こんな他愛ない会話をしながら、我々は弁当をつまみにして缶ビールを飲みつつ、花見を楽しんだのだった。我々普通の日本人というのは、なぜこうも花見をするのが好きなのか。西行法師の頃から日本人は熱心に桜を見るようになったようだから、数百年もの間、来る年来る年花見にうつつをぬかしてきたものと見える。
「ところで俺はこの四月から職場が変ることになってな」と英策が缶ビールを飲みほした後で言った。
「ほお、今度はどんな仕事になるんだい?」
「出張所の所長さ」
「出張所の所長と言うと、昔で言えば代官みたいなものだな。依田学海も佐倉藩の代官職をやったことがある」
「代官と言えば聞こえがいいが、出張所長と言うとあまり冴えない。代官はその土地の最高権力者で、それこそ領民の生殺与奪の権力を持っていたもんだが、出張所の所長では、その土地の住民相手に御用聞きみたいなことをしているだけさ」
「あまり強い職権がないということかい?」
「職権などは全くないと言ってよい。市役所のサービスの出前みたいなものだ」
「でも、土地の名士くらいには扱ってもらえるだろう?」
「いやいや、ただの丁稚みたいなものさ」
「それでも市役所の建物の中で、机にかじりついて窮屈な思いをしているよりは、出先でのんびりしている方がいいんじゃないか?」
「それは人によりけりだ。まあ、勤め人としては上から言われたことを粛々とやる意外に道はないから、不平を言わずにやるつもりではいるけどね」
「今までやっていた郷土史のほうは引き続きやるのかい?」
「ああ、そっちのほうは引き続きやるつもりだ。ところでお前の小説もだいぶ進んだようだが、もうそろそろ完成かね。書き始めてから大分経つじゃないか?」
「去年の六月頃から書き始めたから、そろそろ一年近くになる。何しろ専業作家ではなく、勤めの合間に時間を見つけて書いているわけだから、なかなかスムーズには進まない。それに普通の小説とは違って一定程度史実を尊重せねばならんから、色々な資料にも当たる必要がある。というわけで遅々として進まないのだが、それでも一年もすれば完成する見込みがついてきた」
「どれくらいの長さになるんだ?」
「原稿用紙にして八百枚くらいだろう」
「ちょっとした長編小説だな」
「小説の価値は長さで決まるもんではないから、長いことを自慢するいわれはないがね」
 我々は宮小路の家に戻って引き続き会話を楽しんだ。座敷から庭のほうを見下ろすと、花壇の一隅にクロッカスの花が鮮やかな色に咲いていた。小さいけれど人の眼をすぐに引き付ける派手な風情の花だ。
「お前の仕事は順調なのかい?」と英策が庭を眺めながら言った。
「あまり順調とは言えんかもな。俺がいまやっている仕事は金に絡むもんだから、色々と雑音が多くて難儀させられている。中でも都議からの要求にはうんざりさせられるよ。お前んとこもそうだと思うが、議員というのは利権に目がないからね。利権のあるところ必ず議員も首を突っ込んで来る。奴さんたちはそれこそ違法すれすれの要求をしてくるからな。それに適当に応えてやらないと、逆恨みをして陰険な報復をしてくる。俺んとこの役人たちは議員をどう料理するかに細心の注意を払っているよ」
「お前はうまくやっているほうか?」
「いや、俺はお前も知っている通り、あまり器用な方ではないからな。うまく立ち回ることができないんだ。先日もある都議から無理難題をふっかけられて、その処理に失敗した。公共用地の払い下げにからんで、その価格を下げるようにと強く要求されたんだ。買収価格と違って払い下げの価格については、何だかんだと理屈をつけて価格の割引をするのは比較的簡単なんだが、それにも限度がある。ところがこのケースの場合には、殆どただ同然で売れというのさ。そこでそれはいくらなんでも無理ですよと言うと、相手は烈火の如く怒り狂う。お前では話にならんから部長を呼べと言い、部長が断ると今度は局長を呼べと言う。局長がふっ飛んでくると、その都議は散々局長の前で我々、つまり俺と部長を罵ったあげく、今度は副知事に電話をして、俺たちのことを攻撃する。とにかくひどいものさ」
「ほお、そりゃすさまじいね」
「人間欲がからむとすさまじいこともしかねぬと言うが、都議会にはそういう我利我利亡者が実に多い。それで俺のように気が弱くて変な正義感を持っている者は、なかなか勤まらないのさ。それはともかく今回のケースでは、副知事迄巻き添えを食ったのは部長の責任だということになったらしい。部長はこの三月末日付で辞表を書かされたのさ。まだ定年には間があるし、本人も辞めるつもりがなかったのを、無理に書かされたのはミエミエだ。俺の場合には課長級だということもあり、罪一等を免じられた形だが、それでも局長からは、高い給料を貰っていることの意味をよく考えろと嫌味を言われた」
「その部長はよく簡単に引き下がったね」
「俺と同じく気が弱いからさ。もっと気が強く、うまい生き方ができていれば、こんなことにはそもそもならなかったはずだ」
「その部長と同じような目にあっている人は多いのかね?」
「俺もそんなに大した情報源を持っているわけじゃないからよくはわからないが、結構あるんだと思う。幹部連中が都議を異常に気にしていることから、そんなふうに思えるんだ。なにしろ何処の局でも、特に部長級の幹部は、都議に対しては、腫れ物に触るように細心の注意をしているよ」
 こんな話をしているうちに、庭の方から鶯の鳴き声が聞こえて来た。声は南側に面した竹の林から聞こえて来る。庭の隅には梅の木も植えてあるのだが、花が散ってしまったこともあるのか、そこからではなく竹の林からだ。はて、梅に鶯という言葉は聞いたことがあるが、竹に鶯という言葉はあるのかしらん、と思いつつ、もしかしたらこれは学海先生が現われる前兆なのかと思ったりした。
 英策が帰った後、小生は改めて庭の方を眺めやった。鶯の姿はともかく、その声ももはや聞こえなかった。小生は学海先生がどこかにしのんでいるのではないかと周囲を見回したが、先生の姿は見えなかった。
 どうしたわけだろう。この前先生に会ったのは正月のことだったが、その時の先生はこの座敷から南側の竹林のほうを眺めていた。そしてその竹林のある斜面には昔掘られた防空壕があると話したら、異様といえるような強い関心を示した。あれは何を意味していたのだろう。
 そう思ってしばし座敷の畳の上にたたずみながら庭の方を見やっていると、やがて学海先生の声が聞こえたような気がした。その声は次のように語っているように思えた。
「オヌシはやがて不思議な体験をするために、この家から異界へと旅立つじゃろう」




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