学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その卅二


 戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いは慶應四年一月三日から六日までのわずか四日間の戦いで討幕勢力が完勝した。つまり幕府側が完敗したわけである。その幕府側は会津・桑名の藩兵が主力になっていた。鳥羽方面には桑名の藩兵が、伏見方面には会津の藩兵が中心に終結したが、それに対して討幕側は、鳥羽方面には薩摩藩兵が、伏見方面には長州藩兵が中心となって迎え撃つ形になった。朝廷の威光をかさにきた討幕側は幕府軍に撤退を求め、それでも歯向かうならば朝敵と見なして成敗すると通告したが、幕府側はそれに応じず、ついに戦端が開かれた。この戦いは数の上では幕府側が圧倒的に有利だったにかかわらず、あっさりと敗北した。それには淀・津両藩の寝返りなども影響したが、何といっても討幕側が近代的な兵器と規律の高さで優っていたという事情があった。幕府側は旧態依然とした刀・槍中心の戦い方で、指揮命令系統も徹底していなかったのである。
 将軍慶喜にとってもこの敗北は意外だったに違いない。戦いが始まる前には薩長など君側の奸を除くと息がっていたが、敗れてみれば自分自身が朝敵とされ追討の対象となっていた。慶喜は当初朝廷との関係を穏やかに進めたいと思っていたのだったが、江戸での薩摩藩邸焼き討ちのことを聞くに及んで興奮のあまり常軌を逸した気分に陥っていたようである。しかし一敗地にまみれて見るとその威勢は急速にしぼんだ。これ以後の慶喜の行動は将軍とは言えないほど姑息なものとなっていった。彼は朝敵として殺されることを恐れたのである。
 慶喜は側近の板倉勝静や会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬とともに七日に大阪城を脱出し、幕府の軍艦開陽丸に乗って江戸へ向かって逃げ出した。その時の慌てぶりは開陽丸の艦長榎本武揚を置き去りにしていったほどだ。
 学海先生に鳥羽・伏見の戦いの第一報が届いたのは一月八日のことである。小田原藩の留守居郡権之助が手紙で
「京師、弥戦始りて、去る三日の夕より伏見辺に砲声きこゑ、京師の書便ありし日、四日の朝まで砲声やまざりしといふ」と知らせて来た。
 翌々日の十日には、二月三日からの三日間伏見、鳥羽、淀にて大合戦があり、歩兵奉行窪田備前守が戦死したほか多数の死傷者が出たが、賊徒も多くが討たれて勝敗がつかないという情報が入った。実際にはこの時点で幕府は大敗していたのだが、学海先生にはそうは伝わっていない。また先生は相手側、すなわち朝廷をいただいた討幕側を賊徒と表現している。
 しかし十一日になるとさすがに幕府大敗の情報が確定的なものとして伝えられた。先生はその情報に接し、落胆しながら次のように日記に記した。
「去る五日の戦、伏見の戦、利あらず。賊徒勝に乗て淀・枚方にせまり、官軍敗走して淀城を去ると。感慨にたへず」
 ここでもまだ先生は幕府軍を官軍と認識しているわけである。
 十二日には慶喜が芝浜について江戸城に入った。諸侯が次々と参内した。学海先生も紀州藩の竹内のもとから江戸城に直行した。城内は「紛雑して、湧くが如し」であった。
 事態のただならぬさまを見た学海先生はどのような行動をとったか。十三日に麻布の上屋敷内にて藩の幹部を前に自分の意見を述べた。
「ことここに至ってはなすすべもござらん。ただ我が藩としては徳川氏と存亡を共にすべきでござる。速やかに庄内藩と共謀して防戦の策を講じるか、あるいは関東の兵を率いて京へ責め上るか。いずれにしても最後の花を咲かせようではござりませぬか」
 学海先生のこの威勢のよすぎる言葉には、先生の兄貞幹を含め、藩の幹部たちは苦笑したに違いない。なにしろ御三家の尾張藩は王政復興のクーデター以来薩長と行動を共にしているし、紀州藩もすでに勤皇へと舵を切ったと伝えられている。水戸藩に至っては天狗党と諸世党との内乱で藩士互いに殺し合い、天下どころの騒ぎではない。そこへ一譜代大名の佐倉藩がいくら気勢をあげてもどうにもなるわけでもない。それに聞くところによれば将軍自身戦う気力はないようだ。そんななかで学海先生の吐く気炎はむなしく見えたに違いないのだ。
 十三日には会津藩の石川英蔵が麻布の藩邸へ訪ねてきて、鳥羽・伏見の戦いで負傷した藩士が江戸へ運ばれて来たので、貴藩の医師佐藤氏の治療をお願いしたいと申し入れて来た。佐藤氏とは順天堂の創設者佐藤泰然の養子佐藤尚中のことで西洋式の外科手術の名手として聞こえていた。会津藩からの要請に佐倉藩は気持ちよく答え、佐藤尚中を会津藩に派遣して負傷した藩士の治療にあたらせた。
 十四日には紀州藩が主導して親藩・譜代の代表者たちを開成所に集め幕府側の今後の方針について協議した。席上では攻・守の二議論が戦わされた。攻とは兵を集めて西進し君側の奸を除くべしというものであり、守とは江戸に立てこもって防衛し将軍家を守るというものである。学海先生は当初守の議論に立っていたが、そのうち会津藩とともに攻の議論を主張するに至った。だがその戦いに自信があったわけではない。先生はその不安を日記に次のように記している。
「味方、賊に十倍する兵ありても、之に敵すること能はず。号令一ならずして衆をたのむの故なるべし。心すべきことなり」
 十五日には紀州藩が中心となって西征の方針が固まった。学海先生は大いに気を引き締めた。
 十六日には紀州藩はじめ開成所のメンバーの代表が老中に面会を求め西征の議を勧めようとしたが、老中は多忙を理由に会わなかった。そのかわりと言っては何だが、この日学海先生は江戸城の中で新選組の近藤勇と土方歳三に初めて会った。近藤は右肩に大怪我をしていた。
「鳥羽・伏見の戦いは壮絶だったと聞きますが、その肩の怪我はその時のものでござるか?」
「いやこれはそれ以前に京都でケガしたものです。そのため右腕が使えず、鳥羽・伏見ではまともに戦えなかったのが残念です」
「新選組の戦いぶりはいつもあっぱれだという評判ですが、今回もさぞ勇敢に戦ったことでしょうな?」
 こう学海先生が言うと、近藤は肩が痛むらしく、
「私はこのありさまで戦うこともできず、言うべきようなこともありませんから、隣にいるこの男に聞いてください」と言って、土方歳三を指した。土方は、
「拙者は配下の兵を率いて伏見・淀、橋本の戦いに臨みましたが、敵の前に大敗を喫し、兵の過半数を失いました。こちらは刀と槍なのに対して敵は鉄砲で攻撃してきます。刀と槍では鉄砲にはかないません」と自嘲気味に言った。
「拙者らはいま賊徒との間で一戦を交えるべく準備をしているところですが、やはり大砲や鉄砲がものを言うでしょうな。それを肝に銘じて戦わねばなりますまい。で、今日登城の趣は?」 
 そう学海先生が聞くと、
「次なる任務を授かろうと思って参った次第です」と近藤勇が答えた。
「それは大儀なことでござる」
 そう先生は言って彼らの勇気に感じ入った。
「極て壮士なり。敬すべく重ずべし」という日記の言葉がその気持ちを現わしている。
 近藤らはその後甲府で討幕軍と正面衝突し敗退することになるであろう。
 十七日には、「征東将軍と偽号せしもの既東下、轅をめぐらすと聞ゆ」という情報が伝わってきた。これはいわゆる偽官軍と言われるものだ。西郷隆盛が民衆工作として行ったもので、東海道各地に官軍を語るものを派遣してその土地の住民に年貢半減などを約束し、民衆の心を幕府から朝廷へと向けさせようとすることを意図していた。西郷はこの役割を江戸藩邸で養っていた相楽総三にやらせた。本物の征東軍が組織されるのは二月九日であるし、その軍が京都を出発するのは二月十五日のことだ。
 学海先生とその周辺が主戦論に傾いて気勢を上げているのとはうらはらに、将軍慶喜には戦闘の意志はなくただただ恭順の意向であると伝えられた。その話を聞いての口惜しさを先生は次のように日記に記している。
「大君弥恭順を主として、敵を逆て戦給ふの意なし。防御の沙汰もきこゑず。兵を出させ給ふ議もなく、会・桑諸藩憤激すれどもせんかたなしといふ」
 会津・桑名の憤激は学海先生も共有するところだったに違いない。
 二十五日には紀州藩の様子を聞きに行ったが、竹内からは藩論が従来とは異なってきたと聞かされた。江戸藩邸では徳川のために尽くそうという意見が強かったが、紀州の国元ではすでに昨年のうちに勤皇で意思を統一したというのだ。学海先生は世の中の潮流が大きく変わって来ていることを否応にも感じざると得なかった。
 二月に入ると賊徒との主戦論はすっかり影をひそめることになった。十一日には将軍慶喜が朝敵と名指され討伐の対象となっていることが明らかにされ、それを受けて慶喜自身が上野の寛永寺に蟄居したこともあり、主戦論どころの騒ぎではなくなったのである。そのかわりに台頭したのは、このままでは将軍が殺されてしまう恐れが強い故、将軍の恩顧を受けたものが一致して将軍のために命乞いを哀訴しようとする動きであった。




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